お祭りなのに楽しそうじゃない人たち / ホバート・ショウデイ2009 #5











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ストリートフォト、どういう訳か人ごみの中でも撮るべきもの、その必要のないものはハッキリとしている。
もちろん、それは自分だけの基準だが、撮るべき人物は遠くからでもすぐに分かる。スポットライトが当たっているように見えるのだ。

カメラを手にしたばかりの頃、ストリートフォトといえばホームレスや暴走族、強面のお兄さんや身体で商売をしている女性たちといった社会の影の部分の人たちがお決まりの被写体だった。
またそれは写真学校の学生たちがストリートでレンズを向けるお気に入りの被写体でもある。
理由は分かりやすいからだ。
僕たちと何か違う匂いがするからだ。

LA時代は毎日ストリートフォトを撮っていた。
映画の街で生きる人たちは強烈な個性の人たちだらけで映画を観ているよりよっぽど面白かった。
毎日、毎日、彼らを撮っていくうちにやがてだんだんと気がつく、結局は皆同じなのだと。
ビジネスで大成功したミリオネアーとホームレス、白バイと暴走族、娼婦と従姉妹のお姉ちゃん、僕たちは皆イコールだ。
「障害がある人たち」というような括りがあるが、健康で恵まれた家庭で育った人間がよってたかって人を殴り殺す場合、その人間の心の中にある障害は計り知れない。健常者、障害者、人をそういうふうには括れない。
レンズを通して人と接するとき、眼に見えるスタイルや肩書き、その人が世間から貼られているレッテルを一度脇に置き、僕たちは皆イコールなんだということを思い起こせば被写体の魅力がじわじわと見えてくる。

ハリウッド映画や香港のアクション映画が映画好きになる入り口だったとしても、フランス映画、イタリア映画、中国映画、インデペンデントフィルム、トーキー、過去の名作などたくさん映画を観ていくうちに、どんどん観る映画の幅が広がり、観るポイントも変わり、今頃になってモノクロの黒沢映画、小津安二郎映画を観ては、昔の日本映画はいいなぁ〜などと呟いてみたりする。

レンズを向ける被写体もそれと似た過程を経て分かりやすいものからある意味より分かりにくいものへ、非日常からより日常的なものへと(僕の場合)対象が変わっている。
それは被写体だけでなく撮り方もそうだ。
インパクトより自然さ、絵作りよりもあるがまま、というように。

僕がときめく被写体は普通の人たちの普通の瞬間だ。(それと女体)
彼らのそういった瞬間を撮った写真は見れば見るほど面白い。
じっくり見ているうちに愛おしささえ感じる。

人というのはほとんどの場合にこやかではない。
どうやら、それぞれの人がそれぞれの問題を抱えて生きているようだが、その深刻度合いや影響力は知る由もない。

楽しむべき場で楽しくなさそうな顔をしている人は目立つ。
どうしたの、一体何があったの、一人なの、さみしいの、、、余計なお世話だ。
でも、そんな余計なお世話を焼きたくなる人たちは、間違いなく被写体として光っている。
余計なお世話を焼きたくなる人を思った通りにカメラに収めることが出来たときは快感だ。
見つけ、どの位置が最適か予測し、ピントを固定して、光を見て、射程距離に入るのを待つか、自分から近寄りシャッターを切る。
すれ違いざまの、ほんの一瞬で全てが決まる。
その一瞬に集中し過ぎると、危ないオーラを体中から発散するのか、十中八九被写体に感づかれる。
蝶のように舞い、蜂のように刺さなければならない。
そう、モハメッド・アリの世界だ。
ストリートフォトはボクサーで、ハンターで、昆虫採集で、ある意味、変質者だ。
もし誰かの写真展をふらりと訪れ、大きなフレームの中に自分の姿を見つけたら驚くだろう。
それが背中を丸め、悲しげに通りを歩いている写真だったら、これがオレか、、、としげしげと見つめるだろう。
人は自分をこういうふうに見ているんだ、と気づくだろう。
そして、もちろん自分の知らぬ間に写真を撮られたことを不快に感じるかもしれない。
そう感じる人は大勢いるだろう。

今やストリートフォトグラファーは常に肖像権と血みどろの戦いをしなければならない。
未成年を被写体としたヌード写真が常に論争の的となるようにストリートフォトももの凄い勢いでタブーの領域に入っている。
この10年間で喫煙者に対する世間からの風当たりが突然冷たくなったように、ストリートでカメラを抱える人間を見る人びとの眼は警戒と憎悪に満ちている。
先進国ではこの感覚が顕著だが、肖像権で騒ぐ先進国人たちに限ってホリデーで訪れた発展途上国では遠慮なくローカルの人たちにレンズを向ける。
確かに国や宗教によってはレンズを向けるべきではない人たちもいる。
写真に写ってしまい、それが雑誌に掲載されたことによって離婚されたり、ひどい罰を受ける人たちだっているからだ。
レンズを向けてもいいか悪いかをしっかりと考える行為も撮影の一つだろう。

色々と難しい時代になっているが、それでも僕は思う、ストリートフォトほどこの時代を正直に語る証人はいないだろうと。
100年後にこの世界を見る人には本物の人びと、本当の瞬間を見て欲しい。

人びとにレンズを向けるのなら、僕たちは心して人びとを撮らなければいけない。
リスペクトの気持ちを忘れずに。
例えその写真の下に勝手なキャプションをつけたとしても。

一枚目の彼、家に帰る時も(最後の写真)寂しげだった。



















ランキング、2位になったのはほんのつかの間の夢だったよう、、、。
いやまてよ、夢があるから人は前に進めるのだ。
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by somashiona | 2009-10-28 21:34 | ホバート・ショウ・デイ

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