売れるものは、いいものか?



友人から日本の単行本をしばらく借りたままになっていた。
海外で生活していると日本の本にいつも飢える。
日本から送られてきたお菓子を食べる時、食べ終わった袋の底に少し残ったお菓子のかすまで大切に食べるように、日本の本も大切に読む。
借りた本を今年中に返さなければと思い、2日で一気に読んだ。
昼間は本を読む時間がないので、この2日間は寝不足だった。
作家の長者番付にも名を連ねるという、今人気の作家の作品だと聞いた。
2〜3ページ読み進め、とても嫌な予感がしたが、人気作家の代表作に酷い外れくじはなかろうと、さらに読み進めた。
2日目の朝3時半に読み終えたばかりのその本をビリビリと破り捨てたい衝動に駆られた。
そうしなかったのは、友人から借りている本だったからだ。

世の中で人気のあるもの、売れているものを見回すとうんざりすることが多い。
それが洋服や車だったりすると僕の意識の範疇にないので、もうどうだっていいのだが、それが映画、本、絵、写真となると僕は「人は人じゃあすませねーぞモード」に入ってしまう。
その意識が特に一番強いのはやはり写真に関してだ。
いい写真、悪い写真は人それぞれ、それはテイストの問題だ、という人がたくさんいるが、少なくても僕自身の写真の判断基準にそういう考え方は存在しない。
いい写真とそうでない写真、その違いは明らかだ。
世の中で評価されている写真を見るとき、いい写真は僕にとってそんなに多くない。
(ここでは僕の写真がいい写真かどうかという痛いところには触れないで欲しい。いい写真が撮れることと、いい写真が分かること、これはまったく別の問題だから、、、汗)
良くもないのに評価されている写真を見ると「おい、皆、何を見てるんだ、これにハートを感じるか?なんでこれがいいのか僕が納得するよう教えてくれ!」と叫びたくなる。(ジェラシーじゃない)
この感覚は仕事の現場でよく感じる。(ほら、やっぱりジェラシーだ、といわないように)
まあ、無名の田舎のフォトグラファーの戯言だと思って聞いて欲しい。(この一言で決まりだな)
写真でお金を貰っている人の仕事を見て、プロを感じる機会がどんどん減っているのだ。
僕が写真をはじめた頃は、「やっぱプロは違うなぁ、、、」と心の中で呟く仕事がまわりに溢れていた。
しかし、写真がデジタル化してからプロを感じる仕事にあまり出会わなくなってきた。
どうしてだろう?
写真の怖いところは「撮れちゃうこと」だ。
写真一筋30年の人も先月カメラを買ったばかりの人も、たまたま同じ場所、同じ時間、同じ光、同じシャッタースピードと絞りの組み合わせ(プログラムオートであっても)、同じ構図で、ある一枚を奇跡的に押さえたとしたら、両者ともほとんど変わらないクオリティの写真が(カメラの性能の劇的な進化もあって)撮れてしまう。
これが本、音楽、絵画、彫刻、映画などを作るとなると、そういう偶然ほとんどあり得ない。
すごいと思わせることが出来るスキルを身につけるためには相当な時間を要するだろう。
しかし、写真は「撮れちゃう」のだ。
ここを勘違いしてフォトグラファーになってしまう人が多すぎる。
僕が一番良く知っている人間では、まさに僕がその一人だ。
フォトグラファーならすぐになれると、正直言って思ってしまった。
なんせ、シャッターを押し、それがいい物であれば、作家が一年かけて書いた小説、画家が長年にわたり積み重ねたスキル、膨大な予算をかけて作った映画、と同様完結した一つの作品が出来上がってしまうのだから。
たしかに、フォトグラファーは資格も何もいらないので、なろうと思えば誰でも明日からなれる。
でも、僕は今にして思う、たとえどんなに努力しても、その中でいいフォトグラファーになれるのはほんの一握りの人だけなのだと。
厳しい競争の中で多くのことを写真に捧げたほんの一握りのいいフォトグラファーが社会で活躍するのなら僕も納得できる。
しかし、現実は違う。
いい写真じゃないのに活躍し、いい写真を撮っているにも関わらず受け入れられないフォトグラファーが多すぎるような気がする。
これはフォトグラファーの問題というよりも、写真を評価する人たちの問題なのだと僕は思う。
「撮れちゃう」写真と同じ深度で「見ちゃう」人たちの問題だ。
世の中、テクノロジーが凄まじい勢いで進化するにつれ、自分の目で見て直接体験せずに、Googleで集めた情報で知識を積み上げていき、物事の善し悪しを判断する人が増えている。
そういう人たちが写真も同じように扱う。
安く請け負うフォトグラファーを見つけ、手っ取り早く仕事の内容を伝え、撮った写真をさらりと見て、あれれ?と思うものを選びだしてしまう。
写真が放っている匂いを感じ取れない。
そういう人生を送っていないから。
写真という一枚の中に何万語にも相当するメッセージが込められた暗号の集まりを解読できる能力なしで写真を選んでしまう。
暗号を解く努力をせずに、答えを先に見てしまうことに慣れているから。
もし、その暗号をしっかり解読することが出来たのなら、フォトグラファーがやり遂げた仕事に感嘆するだろう。
ああ、写真の力って凄いんだ、と自分がそれを選ぶ権利のある人間であることの重要さに改めて気がつくだろう。
その能力を持っていない人たちが選び、作り上げたものを多くの人たちが日常的に目にし、それが一般大衆にとってのいい写真のスタンダードになる。
これは恐ろしくもあり、悲しいことでもある。
写真を撮る人間にも、写真を受けとる者たちにとっても。
なぜか話は戻るが、人気作家の破り捨てたくなった本を読んだ時、同じ種類の怒りと悲しみを感じた。
これがウケる世の中なのか?
深みってものが全然ないだろう!
いい作家はもっと、もっとたくさんいるじゃないか!
これじゃ、真面目に書いている人にあんまりだ!と。


雑誌の編集者やライターからメールが届くたび、その短く洗練された文章を見て、さすがプロ、と唸ってしまう。
画家である僕の子供たちの母親が子供たちのリクエストに応えてチラシの裏に様々な動物や似顔絵を描くたび、その無駄と迷いのない線を見て、さすがプロは違う、と唸ってしまう。
ダンスの先生が週末にプライベートでパブを訪れ、そこで軽くステップを踏む姿にはスポットライトが当たっているように見える。
ナショナルジオグラフィック誌のスタッフフォトグラファーを30年以上勤めあげたブルース・デイルさんと雑談をしていた時、アメリカにいる家族や孫たちのスナップショットを見せてくれた。
多くのフォトグラファーと同じように彼もまた、たとえオフの日であっても小型のコンデジ一台は必ず肌身離さず持っている。
彼のスナップを見て僕は顔が引きつった。
コンデジで撮られたスナップたちを引き伸ばしてフレームに入れれば、すぐに銀座のギャラリーで写真展が開ける。
プロになって軽く10年以上経っている僕が思わず「やっぱ、プロは違うな、、、」と呟き、一人で赤面してしまった。

これだけ卓越したプロの技と感性にしっかりと応える媒体が今どれだけあるだろうか?
「雑誌はもう終わってしまった」と彼がぽつりと呟いたその言葉が耳に残って離れない。














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テキストとはまったく無関係の、シダの葉に覆われた場所で泣くミモちゃん














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by somashiona | 2009-12-04 22:24 | デジタル

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