他人の写真にアドバイスするときの心理




写真についてのアドバイスをよく求められる。
人の写真をどうこう言う暇があるのなら自分の写真をなんとかしろ!というのが僕の現状なのだが、いかんせん写真が好きなので意見を求められるとついついそれに答えてしまう。
ただ答えるのではない。
自分で言うのもなんだがまるで何かがのり移ったかのように全身全霊で語りはじめ、勢いはどんどん増し、写真のアドバイスという範疇を遥かに超え、酷いときには人の生き方の話になる。
あまりに熱く語るためか意見を聞いている相手がどんな気持ちになっているかということにまったく気がつかない。
ほとんどの場合、酷い言葉のオンパレードに相手はかなり落ち込み、僕は「またやってしまった、、、」と猛烈に反省するのだが時すでに遅しだ。

いつも思う、写真の話になるとどうしてこんなに常軌を逸してしまうのだろうかと。
ちなみに写真に関して語りはじめるとき我を忘れる人を僕は今まで何人も見ている。
写真について批評をするとき人間の体内にはサディスティックな熱い血が流れるのではないか。
普通の人はSに、SのひとはドSにと言葉巧みに相手の写真を地の底に引きづりおろす。
写真の表現だけでなく、好きな写真家、フィルムの魅力、レンズの魅力、画像処理のテクニック、暗室のテクニック、フィルターワークなどなど、その人の得意分野のツボにはまる質問を一つでもしようものなら150くらいは間違いなく答えがかえってくるだろう。
語りだしたら最後、誰しもその分野のオーソリティになる。
ためしにライカをぶら下げているおじさんに「初めてのライカを手に入れるのならどれがいいですかね?」と聞いてみるといい。
最低30分はその場に縛り付けられるので、時間のあるときに試すべきだ。

僕のツボは写真家の話と仕事写真(特にエディトリアル)についての表現とテクニックという分野だろう。
特に仕事写真のアドバイスを求められたらいきなり星一徹に豹変する。
ギブスして写真を撮るべきだなどと言いかねない。(古いか)

写真のアドバイスも趣味としての写真や個人的作品に関するものにはあまり語るべきことがない。
それは何をどう表現しようと作り手の自由だからだ。

でも仕事の写真は違う。
仕事の写真にはハッキリとした目的がある。
その人の持つテイストは別として、プロとしてクリアしなくてはいけない最低限のラインというものがある。
そのラインが何なのかどこにもハッキリと明記したものはないが、その世界で仕事をする人なら誰でも分かるであろうハッキリとした線というものが確かにあるのだ。

写真学校時代はもちろんプロになってからも、必死になって撮った写真、自分では最高だと思っている写真を先生、同僚、仕事相手から手厳しく、徹底的に悪い点を指摘され、しょんぼりと肩を落とし何度家に帰ったことだろう。
幸運にもそれらの経験はとても役立っているが。
(虐待にあった人、イジメにあった人が後に虐待やイジメをするようになるのと同じ構造か?)
そういうことを言ってくれる人がいなくなると、次は自分の写真に対し心の中で徹底的に突っ込みを入るようにしなければならない。
自分の写真だけではなく、目にする写真全てに対して、何がいいのか、何が足りないのか、どうすれば良かったのか、他に何が出来たのかを普段から考えるようになる。
性格が悪くなるのも無理はない。
フリーランスで生きていると日々そういうことを自問自答しているので、生け贄が罠にかかると普段の自問自答を思いっきり爆発させてしまうのだ。
結局、写真についてのアドバイスは自分に対して発せられている言葉なのだ。
普段、自分にははっきりと言えない反省点、自分でやろうとしても思うように出来ないことを他人というスケープゴートを利用して思う存分爆発させているに違いない。
とても嫌な性格だ。

皆さん、プロのフォトグラファーにアドバイスを求めるときはくれぐれもご注意を!
僕にアドバイスを求めてしまった方、酷いこと言ってごめんよ〜!














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by somashiona | 2010-04-04 18:08 | デジタル

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