ニュー・カラー / ウィリアム・エグルストン




日本にいたときはいつも写真家や写真界の情報を追いかけていたが、タスマニアに住むようになってからはまったくそういうことをしなくなった。
なので新しい写真家の知識に乏しい。
それでも、たまにはネットで賞を受賞した写真家の作品や話題になっている作品を眺めたり、写真つながりの友人たちが勧めるフォトグラファーのサイトを覗いてみたりするが、正直言って心に響く写真家や作品に巡り合わない。

色々な写真家の作品を漁るように追い求めていたのは、やはり写真が好きだからだ。
いい写真に巡りあったときの感動は、乾いた毎日を確実に潤してくれる。
他者の感性の世界を素直に漂うことが出来るとき、自分で自分を縛り付けているある種の呪縛から開放される。
色々な写真を追いかけるもう一つの大きな理由は、やはり自分の写真のレベルを高めたいから。
自分の感性だけを信じて写真を撮り続けるべきだ、という意見を時々耳にするが、僕たちは普段の生活の中でほとんど無意識に何百、何千もの写真を目にしている。
雑誌から、チラシから、新聞から、ネットから、地下鉄の広告から、商品のパッケージから、それらを写真として見ていないレベルで写真というものを毎日嫌になるくらい目にしているのだ。
そして、残念なことに僕達が目にするそれらの写真はその時代の感性を100%意識した写真たちで、「こういう写真が今イイんですよ」というステレオタイプの権化のようなものだ。
だからなのかどうかは定かでないが、写真好きを名乗る人たちの写真はどこか皆似ている気がする。
自分らしさを主張したいから写真を撮っているはずなのに、多くの人達の写真と似ているばかりか、多くの人達が良いと思ってくれる写真を撮り出すことになる。
今この時代に溢れているタイプ以外の写真に触れたければ、それはやはり、それなりの努力をするしかない。
日本は、特に東京は、写真史を変えた作品、写真を語る上で忘れてはいけない写真家たちの作品、今もっとも注目を浴びている写真家の作品、アンダーグランドで支持されている作家の生の作品に頻繁に触れることができる世界でも指折りの都市だ。
例えば、たぶん今世界で一番名の知れている日本人の写真家のひとり杉本博司さんの作品をパソコンの画面で見ても、その写真がなぜ世界中の人達から高い評価を得ているのかさっぱり分からないだろう。
彼のプリントを目の前で見れば、その静かなエネルギーに打ちのめされるはずだし、そういう機会が東京には頻繁にある。
真に打ちのめされれば、自分の撮っている写真の方向も自然と考えるだろう。


話は戻るが、タスマニアに来てから意欲的に他の写真家の作品を追い求めなくなった一番の理由は、やはり世界で通用するいい作品に生で触れる機会が殆ど無いからだと思っている。
メルボルンやシドニーでも東京のような良質の写真展をそう度々やっていない。
良い写真展を生で見る機会がないことは、写真の方向性だけではなく、技術的な面でも影響する。
例えばプリントがそうだ。
タスマニアで写真を学んでいる人たちのプリントのレベルがお粗末なのは無理もない。
完成度の高いオリジナルプリントを生で見たことがないのだから。
良いプリントだけは、それを見たことがなければ再現できないものだと思う。
見たことがないものが、夢に出てくることがないように。
様々な写真を追いかけなくなった2番目の理由は、自分は自分の写真を撮ればいいんだ、とこの歳になってやっと思えるようになってきたからだと思う。
これが開き直りか、諦めなのかは熟考する余地があるが。
昔は自分の写真スタイル、オリジナリティ、みたいなものをいつも探し求めていた。
だが、いつしかそんなことはまったく考えなくなった。
考えなくなった時点で、自分のスタイルのようなものができてくるのかもしれない。

意欲的に他の写真家の作品を追い求めなくなった僕は、写真に対する関心、自分の写真を高めようとする意欲がなくなったのか、というと決してそうではない。
数週間前、「相原さんの奥さんお披露目会」パーティに出席したとき、今相原さんが写真展をやっているギャラリーのキュレーターであるトレーシーさんが興味深い話を僕にしてくれた。
相原さんが写真展をやっているThe Wilderness Galleryはタスマニアの山の中にある。
トレーシーさんもやはりその周辺に住んでいて、文化的情報の欠如は僕が住んでいるホバートの比じゃないはずだ。
「そういう環境でキュレーターとしての眼力が落ちないか?」という失礼な質問を彼女にすると、「巷に溢れる様々な情報に触れないぶん、自分の感性を素直に信じることができるようになった」という答えが返ってきた。
実は僕も同じようなことを思っている。
写真に対する意欲は以前とまったく変わらない状況で、多くの優れた写真を生で見ることが出来なくなると、否応なしに自分の写真をじっくりと見つめ、考えるようになるのだ。

フィルム時代は暗室大好き人間で、モノクロ以外は写真じゃないと信じていた。
カラーは仕事だから撮るんだ、と自分に言い聞かせていた。
デジタルになって、暗室を失い、いわゆるモノクロ写真を簡単に作り出せるようになると、僕は写真をあまりモノクロで表現しなくなった。
カラーをモノクロに変えている、という考えをどうしてもぬぐい去ることが出来ないのだ。
これは僕的には「ズルしている」「まやかし」というような言葉と同義語だ。
この考え方が間違っていることは知っている。
フィルムだろうがデジタルであろうがモノクロが適している被写体、テーマがあるのなら、きちんとモノクロで仕上げるべきなのだ。
しかし、僕の写真は今圧倒的にカラーだ。

芸術の世界でもモノクロとカラーに関してその扱いに対する葛藤があった時代がある。
そもそも、ひとつのネガから同じものをコピー出来る写真プリントというものが、この世に一品しかないから価値がある芸術の世界で扱われるまでは紆余曲折があったのだが、この話は端折りたい。
アンセル・アダムスやエドワード・ウェストンらf/64というグループがモノクロプリントを美術館やギャラリーなどで保存する価値がある芸術作品であるという考えを世の中に定着させた後、芸術作品として取引されるのはモノクロプリントであって、カラーは商業用の写真としての地位を越えることがなかった。
この壁を破ったのは1970年代後半に出現した写真家、ウィリアム・エグルストンだろう。
1939年、アメリカ、テネシー州で生まれた彼は自分の街をフィルムに収めつづけた。
1976年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で彼は写真展を行うことになった。この美術館としては初めてのカラー写真による写真展だ。
しかし当時、長期保存する際に褪色してしまうカラープリントを美術品として保存してもよいかどうかという大論争が起こった。
結果的にこの論争が彼をさらに有名な写真家にし、彼の作品は写真界において「ニュー・カラー」という新しいムーブメントを巻き起こす起爆剤になった。
その後、カラー写真が美術品として扱われるようになったわけだ。

大雑把な分類だが僕にとって写真家は2つのタイプに分かれる。
アンセル・アダムスのようなタイプかブレッソンのようなタイプ。
日本なら土門拳タイプか木村伊兵衛タイプ。
共に前者はハッキリとした意図や被写体が写真の中にあって、それを緻密な構図や技法で表現するタイプ。
後者は時間の流れから一瞬を切り取り、そこにある間や空気感を切り取るタイプ。
僕的にはウィリアム・エグルストンは後者に属する写真家で、僕自身の写真の好みも後者に属する写真だ。
エグルストンは写真史においてあまりにも有名な人物なので、今までに何度も彼の写真や写真集を目にしたのだが、正直言って僕は彼の写真を長い間理解できないでいた。
いわゆる最近の若い女子たちが真っ白なオリンパスのペンを首からぶら下げてカシャカシャ撮っている写真とどこが違うのかと思わせる写真の数々なのだ。
しかし、彼の写真を一度見ると脳細胞に定着し、忘れ去ることが出来ない。
最近、彼を扱ったドキュメンタリーフィルム、「William Eggleston in the Real World」を観て、目からウロコが落ちてしまった。
ああ、なんて写真している写真なんだろう、と10年ぶりくらいに彼の写真を見てそう思ったのだ。
昔は理解できなかった彼の写真、どうして今は感動できるのか、少し考えてみた。
まず第一に考えられることは、昔はなかったカラー写真に対するこだわりが今はあるからだろう。
僕達が毎日目にし、何かを感じるている世界はサングラスをかけていたとしても、カラーなのだ。
自分の感動に色が何パーセントか貢献しているのなら、やはりその色を素直に出さないとその感動は伝わらないだろう、という考え方が最近心の何処かにある。
(モノクロ派の自分としては認めたくない事実なのだが)
撮った写真も最近は、できるだけ画像処理しない方針だ。

第二に考えたのは、写真ならではの表現や被写体の選び方という点について自分の考え方が広がってきたからではないのかということ。
日本にいたとき僕の写真を絵のモチーフとして使わせて欲しいと頼まれることが度々あったが、その度ごとに「ああ、僕の写真は絵でも表現できるのか、、、」とガッカリしたものだった。
絵で表現できる世界なら、なにも写真でそれを捉える価値はない。
被写体の選び方もしかり。
例えば、グラマラスな美女のヌード写真と買い物袋をぶら下げて近所を歩いていたおばさんの写真、どちらが壁に飾る写真として成立しやすいかといえば、趣味の問題もあるが、やはり圧倒的に前者だろう。
(グラマラスな美女のヌード写真を壁に飾りたいかどうかは別として)
見知らぬ買い物袋のおばさんが写真として立派に成立するためにはそこからどれだけのストーリーを引き出すかという努力を多くのフォトグラファーはするだろう。
だが、同じ状況にエグルストンがカメラを持って立っていたのなら、彼はそんなストーリー性をも一見排除した一枚を撮ることだろう。
この人は何を撮りたかったのだろう?と思わせるような一枚を。
それでいて、どうしてなのか説明できないが、どうしょうもなく心に響いてくる写真を彼は撮ることができるのだ。
僕が感動する写真は撮影する者がそこに目をつけなければ多くの人が見落としてしまう美を写真ならではのスピードで切り取ったものだ。
この世界はこともすればマスターベーション・スナップショット(マス・スナ)に陥りやすいし(というか、99%の写真愛好家たちはこれに陥っているはずだ。僕も含めて)、写真を鑑賞する側もそれが確かに優れたものなのか、それともただのマス・スナなのか判断する能力が求められる。
こればっかりは、分かる人にはわかるし、わからない人には努力しても無理な世界かもしれない。
感性は努力ではどうしようもないことがあるからだ。
女子高生がコンデジで撮った日常のスナップショットとエグルストンの写真の中にある違いはいったい何なのか?
エグルストンは有名な写真家だから彼の写真がよく見えるのか?
いや、ちがう。
彼の写真にはどう考えても普遍性がある。
揺るぎない美学がある。
彼が撮った1970年代の写真をいま見ても新鮮に、しかもまるで自分の体験の一部のように見ることができる。
写真集やプリントを所有したい衝動に駆られる。
彼のものを見る眼と美意識がずば抜けて優れているとしか言いようがない。

映画が好きだからといって毎回ハリウッド映画だけじゃつまらないだろう。
たまにはヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュ、パトリス・ルコント、いや古いところで小津安二郎、フランソワ・トリュフォー、ゴダール、アッバス・キアロスタミなどを観て映画鑑賞の深みを楽しむように、写真も写真史に残る巨匠たちの作品を折に触れて目にすることをお勧めしたい。












12月11日のマス・スナ
こういう記事を書いた後に自分の写真を載せるのはとても心苦しいものです。(悔涙)
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by somashiona | 2010-12-13 13:19 | 写真家

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