Sorryと言える国民




昨年とても驚いたことの一つはオーストラリアの政権が変わったことだ。






前首相ジョン・ハワードは1996 – 2007の4期首相を務めた。これはオーストラリア建国史上初の快挙だ。2004年の4期目の選挙の時は僕もオーストラリア生活に充分慣れていたせいか、人々の関心の度合いや各党の色が見え、色々な人たちと選挙の話しで盛り上がった。こちらの人は若者からお年寄りまで政治の話しが大好きだ。「関心ありません」などと言おうものならその人の人格とインテリジェンス自体が否定される。この3期目の選挙はイラクへの派兵が焦点となっていた。僕の知る限り、ほとんどのオージーたちがアメリカと足並みを揃えたとこにとても怒っていた。僕はこれでジョン・ハワードもおしまいだな、と思っていた。しかし、蓋を開けるとジョン・ハワード率いる自由党の圧勝で、彼の4期目が決まった。ジョン・ハワード政権になってから、オーストラリアは空前絶後好景気だ。新しいレストランやカフェが増え、街を走るクルマも新車が多くなり、人々はショッピングに忙しい。あやふやな理由で他の国を侵略し、自利のために罪もない人々の命を奪い、「正義」という言葉を使いさせすれば、何をやっても許されるという風潮にある意味、オージーは賛同したのだ。これに僕はとてもガッカリした。「オージーたちよ、君たちもやはりそうか、、、自分の財布の中身のほうが大事なんだね、、、」という思い出いっぱいだった。実際、僕と同じ気持ちを抱いたオージーも多かったようだ。悔し涙を流す友人もいた。






しかし昨年の選挙は違った。国民のアンケートでは「ジョン・ハワードはとてもよくやっている、彼が首相になって以来オーストラリアはすべてが上手くいっている」と言う声が多数だったが、「で、これからもそれが続くの?また同じことの繰り返し?」という気持ちが国民の中に沸々とわきあがった。政治には保守的といわれるオージーが変化を求めたのだ。
オーストラリアでは州の選挙はいつも労働党が圧勝する。労働党は人々の生活に密着した政策を打ち出す。なので各州の知事、政権は労働党が握る。しかしオーストラリア全体の政治はジョン・ハワード率いる自由党だ。オーストラリア経済、外交、そういった大きなことは木を見て森を見ない労働党には任せられないという気持ちが強いのだろう。しかし、2007年12月3日にオーストラリア労働党党首を務めるケビン・ラッドが第26代首相に就任した。






ケビン・ラッドはこの選挙でオーストラリアの『盗まれた世代』に謝罪するという公約を掲げていた。








盗まれた世代(英:The Stolen Generation)とは、オーストラリア政府や教会によって家族から引き離されたオーストラリア・アボリジニとトレス海峡諸島の混血の子供たちを指すために用いられる言葉である。1869年から公式的には1969年までの間、様々な州法などにより、アボリジニの親権は否定され、子供たちは強制収容所や孤児院などの施設に送られた。「盗まれた世代」は、1997年に刊行された検事総長の報告書 "Bringing Them Home"によって、オーストラリアで一般的に注目されるようになった。「盗まれた世代」の問題が実際にあったのか、またどの程度の規模だったのかは、いまだに議論が続けられている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋








昨日、ケビン・ラッドはこの盗まれた世代の人たちに公式に謝罪した。
この様子は生放送でオーストラリア中に流され、公園で、街頭で、広場で巨大スクリーンが設置され、各家庭のテレビの前はもちろん、多くの人たちがこの歴史的瞬間を見守った。






この演説の中でケビン・ラッドは「We say sorry」という言葉を何度も口にした。
街中、国中に「Sorry」というTシャツ、プラカード、大地に書かれた巨大文字が溢れていた。
一日にあれほど「Sorry」という言葉を目にし、耳にしたことは今まで一度もない。






僕たちの歴史は多かれ少なかれ、先住民族たちの犠牲に成り立っている。
ネイティブアメリカン、アボリジニ、イヌイット、インディオ、アイヌ、、、。
時計は巻き戻せないが、この「ごめんね」の一言がどれほど多くの人々の心のわだかまりを軽くし、人と人との距離を短くするか。
非を認めた途端、保証問題等それに関わる事柄をすべて公式に見直さなければいけない。大変なことだがそれによって今まで膠着していた問題が大きく前進するだろう。
とても前向きな形で。






日本も公式に謝罪しなければいけないことが山積みのはずだ。
ちゃんと謝れる人と人は付き合いたいと思うだろう。
今の日本に必要なのは潔さだと海外から見ているとよく思う。
潔さは日本人の得意技だったはずだ。
なにも切腹しろと言っている訳ではない。






昨日、この「Sorry」の言葉が流れるたび、人々は涙を流し、抱擁しあった。
アボリジニの人たちだけじゃない、白人もアジア人も大人も子供も。
一つの国が「Sorry」という言葉のもとに心を共にし、温かく、優しくなれた一日だった。
この感動の余波は「盗まれた世代」の問題だけにとどまらないだろう。
こういう感動を政治が国民に与えられるのだということを、特に若い世代の人たちの心に長く定着するだろう。






日本人はなんでもすぐに「Sorry」と言ってしまう癖のある民族だ。
僕はこの国に来てからこの言葉を口にしないように心がけている。
この国では「Sorry」は軽い言葉でない。
この言葉を口にすると全ての責任を取らなければいけないのだ。
しかし、本当に謝罪しなければいけないことが起こったとき、素直に、心を込めて言えるようにしたい、「Sorry」と。









写真はジョン・ハワードでもケビン・ラッドでもなく、グリーン党ボブ・ブラウンの選挙ポスターだ。


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選挙のポスターは壁や道路沿いでよく見かけるものだが、ボブ・ブラウンに関しては人々の庭の中で見ることが多い。
やはり彼の顔は緑の中がよく似合う。






選挙ポスターといえば、タスマニアでは「これって逆効果だろう、、、」と思わずつぶやいてしまうような、渋いものも時々見かける。




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今回もコンデジショットだ。






昨日、この「Sorry」の話題に包まれている間中、僕の頭の中はトレーシー・チャプマンの『Baby Can I hold you』が流れていた。
何度も何度も。




Sorry
Is all that you can't say
Years gone by and still
Words don't come easily
Like sorry like sorry …♬








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by somashiona | 2008-02-14 10:42 | デジタル

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