大切な者を写真に残す



人によってはっきりと好みが別れるものがある。
猫派それとも犬派。
山派それとも海派。
写真だと風景派か、それとも人物派か、などなど。
僕はやはり人物派。
そして写真を撮るときのロケーションで海と山なら、海の方ががぜん写欲が湧く。
海に行って、カメラを持っていて、子供たちも一緒。
子供たちと一緒の時は本気モードを禁じている僕にとって、これはある意味辛い状況だ。






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以前子供たちはまだかなり小さかったとき、僕は海岸でいつものように夢中で写真を撮っていた。
子供たちも砂浜で、いつものように、お城つくりに夢中。
夕暮れ時の真っ赤に染まる海面を上手くとらえようと四苦八苦している時、突然背中に悪寒が走った。
ファインダーから目を離すと、津波のような大波が子供たちに向かって押し寄せていた。
一瞬、頭が白くなったが身体にスイッチが入った僕は電光石火で子供たちに向けて突進し、間一髪で彼らを救い出した。
子供たちは僕の顔を見て唖然としていたが、僕は彼らの顔を見て涙を浮かべた。
写真は僕に撮って信じられないほど大切なものだ。
でも、僕はもう少しで写真よりも、自分よりも大切なものを失いかけた。
それ以来、僕は自分にとって何が一番大切なのかいつも自分に言い聞かせるようにしている。
仕事、金銭面での苦難、自分の楽しみ、板挟みになった時はあの時の海岸での気持ちを思い出すようにしている。






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前にも書いたかもしれないが、昔ある本で読んだ一節がいつも僕の頭の中にある。
こんな感じの話だ。


昔、昔、ヨーロッパでは自分の愛する身内が死んでしまうと遠路から写真家を呼び寄せ、その死に顔を写真に収めてもらう。
写真というものがまだ日常的に無く、愛する者の姿を納めた一枚を家族の誰も持っていないからだ。
死に顔を撮った写真家はそのプリントの閉じたまぶたの上から瞳を描き込む。細い筆と黒インクを使ったスポッティングという手法、今でいうレタッチ作業だ。
完成したプリントは家族に渡され、ボロボロの家の壁に、家の中で一番大切な宝物として飾られる。


僕たちはいつだって思う。
毎日腐るほど見ている夫の横顔、妻の笑顔、子供たちの泣き顔、忘れるわけが無いと。
しかし、愛する者を失い、強い悲しみが時間とともに少しずつ薄れていくのと同時に、愛する者の輪郭はぼやけてくる。
耳の形。
はにかんだ時の唇の動き。
安らかな寝顔。
シーツをわしづかみにする時の手。
やがて、記憶に残るのはおはようと言う時の眠たげな声。
愛をささやく時の甘い声だけに。
かつて人びとは、愛する者の姿が記憶の中から消えていくのを極端に恐れた。
だから死に顔に偽物の瞳を入れてまで写真を撮ったのだ。






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僕が人の写真を撮る時、どう言う訳かこの考え方が常に根底にある。
今、このかけがえの無い一瞬を僕は撮っているのだと強く感じる。
写真に収められた、普段と特別変わらない日常的な一瞬は、その後愛する者たちにとって永遠の宝物として生き続けるかもしれないのだ。

写欲を封じ込められた海岸で、僕がレンズを向ける先は、僕がこの世で一番大切にする者たちだ。






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by somashiona | 2008-05-04 13:47 | ソーマとシオナ

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