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皆さん、よい年越しを





クリスマス関連行事が怒濤のように押し寄せ、クリスマス翌日にやっと一息ついた感じ。
25日に子供たちの家で行なわれたクリスマスパーティには5家族が集まった。
それぞれの家族が食べ物を持ち寄るのだが、「何を作って欲しい?」と子供たちに聞くと、最近僕たち親子の間で流行っている「コロッケ」という答えが返ってきた。
ぐずぐず、だらだらがいつまでも直らない僕は24日の夜10時からジャガイモを茹ではじめた。ポテトコロッケ、カレーコロッケ、カボチャチーズコロッケを油で揚げる手前までやっとのことでこぎつけたのが午前2時半。
いつもは子供たちと一緒にコロッケを作るので、一人で60個作るのがこんなに大変だとは思ってもいなかった。
翌朝7時に起きて(睡眠不足は嫌い)、キッチンに散乱した小麦粉やパン粉にうんざりしながら、たっぷりのサラダオイルを使ってコロッケ60個を一気に揚げ、朝9時にたくさんのプレゼントとコロッケを車に乗せて家を出た。
カメラはもちろんパーティに持っていったが、写真はほとんど撮らなかった。
美味しい料理や甘いデザートを食べるのに忙しすぎた。



さて、話はまったく変わるのだが、昨日、今年撮った写真をざっと見直してみた。
新聞、雑誌、ファミリーポートレイト、ウェディング、会社、自治体、レストランなどのための広告用、又はウェブサイト用の商品や食品写真、画家のための作品の複写、風景、動物、建物などなど、もう完全に何でも屋さんだ。
仕事の写真はいつだって120%全力投球、いい写真でなくてはならない。
でも、1年間の写真を見渡し写真として「ああ、いいなぁ、こういうの」と思ったのは散歩の合間に撮ったありふれたスナップ、ああ空が綺麗だなぁと部屋の窓から撮った写真、子供たちの日常写真、そんな何の変哲もない写真たちだった。

何の変哲もない写真たちは日常の記録の積み重ね。
例えば10ヶ月も前に撮られたフォルダーの中を見てみると、僕の住む家の周りの道路の写真があったりする。
毎日、毎日見ている道だが、たかだか10ヶ月前のその写真に懐かしさすら感じる。その時そこを通りかかった人、車、猫、そして太陽によって作られた影、風によって揺れていた木の葉、2度と帰らないその時間に懐かしさ、愛おしさを感じてしまうのだ。
どうしてそこでシャッターを切ったのか覚えていないが、シャッターを切ったからにはそれなりの動機や感じたものがその時にはきっとあったのだ。
そういう感覚で撮られた写真たちを一年分まとめて見ると、そこにはおぼろげに僕の知らない僕が見える。
これが自分の撮った何の変哲もないスナップたちに面白さを感じた一番の理由だ。
ながく写真を続けているのだから、もういい加減そういうものたち、僕の頭が撮ったのではない写真たちに注目してあげてもいいのではないかという気がしてきた。
そういう写真たちが心で撮った写真たちなんじゃないか、という気がしてきた。
残念ながら、こういう写真たちはウケない。
だが、それがどうした、それが自分ならいいじゃないか。
これからは、そういうウケない写真たちも積極的にブログでアップしていこうと思う。
ブログはそういう写真たちに光をあてる最高のメディアだ。
見る人は、感情移入する修行をしてほしい。

2007年の3月から始めたこのブログ、この記事で407件目、コメントは今までに7493件、全体の訪問者数は208,415人だ。
この数字をどうとらえればいいのだろう?
407回好き勝手な事を不特定多数の人に向かって言い放ち、7493回他者とコミュニケーションを交わし、208,415人が僕のブログを気にかけて覗いてくれたのだ(これは少し違うかも。アクセス数でなく訪問者数をどう表現すべき?)。
これもいわば僕の日常の積み重ねなのだろう。
自分の主観で言葉やイメージを発信し、それが個人の歴史として淡々と刻まれ、残っていくブログは写真とどこか似ている。

今年一年間、たくさんの人たちが僕の話に耳を傾け、僕が見たものを一緒に見てくれた事が本当に嬉しい。
自分の経験を誰かと分かち合えるのなら、生きている事に価値がある気にさえなってしまう。
もっとはちゃめちゃな人生を送れば僕のブログもさぞかし面白いものになるのだろうが、同時に僕の人生もさらにキツくなっていくはずだから、ここはやはり地味と人に言われようが着実にいきたい。

今年皆さんの心に残る記事や写真はどれくらいあっただろうか?
来年はどんな事が起こるのだろうか?
来年も必死にやるだけだ。
今年よりも来年はいい人間になりたい。
他人や世の中のためになる事を一つでも多くやりたい。
子供たちともっと真剣に接したい。
物事がもっとよく見える目を養いたい。
つねに自然体でいれる人間になりたい。

皆さん、よい年越しを。
来年、また会いましょう。













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by somashiona | 2009-12-28 07:35 | デジタル

真実を知りたくないときもある




今日の写真はシドニーでゲイ・レズビアンパレードのマルディグラを撮った翌日のもの。
僕は都会の喧騒にまぎれこむと、いつもビルを見上げて歩く。
おのぼりさんのマネをする時、人は上の方を見上げキョロキョロするが、僕がやっているのもまさにそれだ。
タスマニアにはあまり高い建物がないので、ニョキニョキと立ち並ぶビルを見るとなんだか嬉しいのだ。






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疲れた首を休めるため、街の中心にあるハイド・パークに行った。
前の夜に人でごった返していた公園がウソのように静まり返っている。
そこで芝生に横たわる人間の姿が眼に入った。
天気のいい日の公園なのだから、芝生に寝転がる人がいてもおかしくはないはずだ、と一瞥しただけで公園の入り口の階段をそのまま歩いた。
が、なんだか引っ掛かる。
その理由の一つは彼が寝ていた場所。
公園の端の車がたくさん走り、人がたくさん通る道路のすぐわき。
大きな公園内、快適な場所はいくらでもあるはずなのに、どうしてこんな変な場所で寝ているんだ。
そして寝ているその姿勢。
気をつけの姿勢というかなんというか、身体が固まったような変な寝かただ。
どうも気になって、上がったばかりの階段を引き返した。

そして、まずは一枚、カシャ。






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なんだかデイヴィッド・リンチの映画に出てくるシーンのようだ。
ひょっとして酔っぱらっちゃって昨夜からここで寝ているのかな?
そうだとしたらマルディグラの後の大掛かりな清掃作業で多くの人がこのおじちゃんの周りでゴミを拾い、様子を確認したはずだ。

どんどん気になってきたので寄りでもう一枚、カシャ。






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見事な寝っぷり、、、、だよなぁ、、、?
っていうか、、、この人、死んでないよなぁ、、、、?
声かけてみようかなぁ、、、気持ちよく寝ていたのなら起こされて怒るかもしれないなぁ、、、。

そこで僕の携帯電話が鳴る。
あっ、いけない!待ち合わせの時間がもうすぐだ。
僕は急いでその場を立ち去ったので、真相は分からぬままだが、真実を知りたくないときもある。


















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by somashiona | 2009-12-21 20:35 | デジタル

アイスクリーム夢遊病




もう直ったはずだから白状するが、僕はしばらくのあいだ、奇妙な現象に悩んでいた。
毎晩(早朝)、午前2:30a.m.から3:30a.m.のあいだに決まって目が覚めるのだ。
それも、きちんとベッドで寝たはずなのにソファで目覚める。
そして気がつく、手にはファミリーサイズのアイスクリームの容器とスプーンを握りしめ、すでにかなりの量を食べてしまったことに。
ああ、またやってしまった、、、と強烈な自己嫌悪に陥った後、それでもさらに3口ほどアイスクリームを食べ、ベッドに戻るのだ。
冷蔵庫からアイスクリームを出した記憶は見事にない。
僕はこの現象をアイスクリーム夢遊病と命名した。

僕は大の甘党だ。
朝起きて一番最初にやることはコップ一杯の水を飲んだ後、チョコレートなどの甘いものを摂取(食べる)すること。
冷蔵庫にはいつもアイスクリームやチョコレートが入っている。
これは頭痛薬を切らすわけにはいかないくらい、僕には重要なことだ。
このアイスクリーム夢遊病の期間僕は2日に1ℓの容器ひとつのペースでアイスクリームをたいらげていた。
さすがに身の危険を感じたが、それ以上に精神の危険を感じた。
なにが僕を無意識の行動へと突き動かしているのか、その理由を考えた。
思い当たる理由はいつものようにストレスくらい。
この奇行を止める簡単な方法、それはアイスクリームが冷蔵庫に入っていない状態をつくること。
精神の危機を感じた一番の理由はスーパーに行くたび、買うべきではないと分かっているのにアイスクリームを買ってしまう点だ。
オーストラリアのスーパーではアイスクリームのセクションがチョコレートやチーズのセクションのように日本の数倍のスペースがある。
オーストラリア人は大人も子供もアイスクリームが大好きだ。
たくさんの種類のアイスクリームが入っているスーパーの巨大な冷凍庫の大きくて少し曇ったガラスドアの前でしばらく立ちつくす。
頭の上には漫画に出てくるような小さく黒いマナブちゃん悪魔と白いマナブちゃん天使が言い争いをする。

天使「こら、マナブ、またアイスクリームを買おうってんじゃないだろうな!そんなこと続けていたら病気になっちゃうってことぐらい、分かってるでしょ!君には自制心ってものがないのか!」

悪魔「ねえマナブ、考えても見てご覧よ。君の身体はね、無意識にアイスクリームを求めているんだ。これは理性を越えて君の身体が出している信号なんだよ。身体の声にはちゃんと耳を傾けて、素直に従うべきだと思うな」

葛藤のあまり額にはうっすらと汗がにじみ、頭がフラフラする。

結局、僕は悪魔君のもっともらしい理論に納得し(納得した振りをして)、アイスクリームを買うのだ。
いつものように、バニラを。

この数ヶ月続いたこのアイスクリーム夢遊病から開放されたのは簡単なきっかけだった。
取材で3週間近く家を空けている期間、アイスクリームを求めて夜中に起きることはなかった。
ホテルでの毎日、朝早い起床、長時間の撮影、知らない土地での運転、夜中に起きるパワーなど少しも残っていなかった。

取材が一段落し、自分の家でのいつもの生活に戻っても、しばらくアイスクリームを買わずに我慢することができた。(えらい、えらい)


今、僕の冷蔵庫には、やはりいつものようにアイスクリームが入っている。
タスマニアで作られているアイスクリーム、VALHALLA(バルハラ)のバニラ1ℓサイズだ。
色々なブランドを試したが、味といい、値段といい、このVALHALLA(バルハラ)に勝るものはない。
もう、さすがに毎日アイスクリームを食べはしないが、子供たちが泊まる土曜の夕食のあとのデザートとして、もしくは日曜の朝のホットケーキと一緒に子供たちと食べる。
本当はまだ毎日でも食べたいのだけど、週末のご褒美としてとっておくことにした。
(えらい、えらい)













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テキストとは関係ないが友人宅のトイレで見つけた年代物の看護婦さんのポートレイト。
モデルになった看護婦さんも写真を撮ったフォトグラファーもこの写真が時を越えて男3人の住む家のトイレに飾られるとは思わなかったろう。
トイレに行くたびこの看護婦さんに見つめられながらおしっこやうんちをするのはさぞかし癒されるにちがいない。
いや、彼らがそう言った訳ではないけれど。












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僕の冷蔵庫に収まる愛しのバルハラとキャドベリー。(参考までに)












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by somashiona | 2009-12-19 09:09 | デジタル

離れても好きな髪




僕の年齢になると抜け落ちる髪は脅威だ。
頭髪の75%が白髪に占領された僕の頭。
白髪の人は禿げる心配がないよ、と人はいうが、若いときと比べると僕の髪の本数はじわり、じわりと確実に減っている。
年齢を重ねるたび生きることに関する力みが抜けてくるが、髪が抜けるのは勘弁して欲しい。


僕だけではなく、多くの人が大切にしている頭髪だが、ひとたびそれが身体を離れると、とても不快なものに感じるのはなぜだろう。


床屋さんの床に散乱する色々な人の髪。
レストランでのおいしい食事に紛れ込んだ髪。
浴槽の排水溝に絡み付く髪。
図書館で借りたほんのページに挟まった知らない人の髪。
大切なビジネスの書類に紛れ込んだ誰かの髪。

それだけじゃない、ベッドの枕カバーに金髪の長い髪がどういう訳か付いていたために不本意にも起こってしまう揉め事。
素敵な女性の家の浴室で発見してしまう淡い黄色の石けんにくっきりと張り付いた陰毛。

頭髪に限らず、体毛は一度身体を離れると突然冷たく扱われる悲しい運命にあるようだ。

週末は子供たちが僕の家に泊まり、家の中は台風が去った後のようになるので、仕事が入っていない月曜の朝に僕がまずやりはじめることは部屋の掃除だ。
シャワーを浴びる前に浴室からはじめる。
バスタブの端にヘアブラシが無造作に置かれていた。
僕の家には一本だけヘアブラシがある。
僕はドライヤーもヘアブラシも使わないし、10歳の息子のソーマもまだヘアスタイルを気にする年齢じゃない。
彼の髪は真っ黒で剛毛だ。
僕の子供の頃と同じ。
ヘアブラシ使う人間はただ一人、8歳の娘、シオナだけなのだ。
そのヘアブラシを手に取って、久しぶりにまじまじと眺めるとかなりたくさんの髪が絡み付いていた。
ヘアブラシの根本から注意しながら絡み付いた髪の毛を引っ張ると、綺麗にひとまとまりになってブラシから離れた。
シオナの髪の毛は一本一本がとても細く、遠くで見ると栗色だが光を通すと明るい金色に光る。
もの凄く強いカーリーヘアなので身体からその頭髪が離れると、指先でつついたときの芋虫のように、磁石から離れたコイルのように長い髪がくるくると丸まってしまう。
彼女を抱きしめたときの髪の匂いが好きだ。
ソーマの髪の匂いはどんどん少年特有の匂いになっていくが、シオナはいつもでも優しく柔らかい。
ヘアブラシからとったシオナの髪の毛のかたまりは、僕の手のひらに可愛らしく収まっていた。
色が白ければ夏の入道雲のように見えるかもしれない。
見た目はボリュームがあるのに重さはまったく感じない。
窓辺に寄って光にかざすと、やはり綺麗な金色になる。
この手触り、前にどこかで経験したことがあるな、としばらく記憶をたどった。
牧場で刈ったばかりの羊の毛を手に乗せたときのことを思い出した。
この軽さ、柔らかさ、そう羊の毛のかたまりと同じだ。
手のひらのシオナの髪の毛のかたまりを頬に寄せるとやはり羊の毛のように柔らかく、そしてシオナの匂いがした。

身体から離れたシオナの髪の毛に微塵の不快感も感じないことに驚いた、親ばかのマンディ・モーニングだった。












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写真はテキストとあまり関係ないが、僕のフラットの玄関で爪切りに専念するシオナ。
穴の開いた服を平気で着ている子供など日本にはもういないのでは、、、?










毎月12月だったらさぞかし充実した人生が送れるだろうと思う今日この頃です。
いよいよ今年も終わり、お互いに身体に気をつけて燃え尽きましょう。










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by somashiona | 2009-12-17 21:47 | ソーマとシオナ

ダライ・ラマがやってきた、ヤァ!ヤァ!ヤァ!



ある夜、夢を見た。
僕は東京ドームのスタンド裏、関係者控え室のようなドアの前に立っている。
どうしてかは分からないが、カメラを持ってそわそわしながら突っ立っている。
ドアが開くと赤とオレンジの服を来た人たちに囲まれて、ダライ・ラマが歩いてくる。
報道関係者や警備員たちはまだ彼らを取り囲んでいない。
これは写真を撮る最高のチャンスだと思い絞り、シャッタースピードを手元で大まかに合わせる。
彼が5mくらいまで近づく。
頭の中で「失礼ですが、写真を一枚撮らせてもらえないでしょうか?」の英語を組み立て、一つ疑問がわいた。
Excuse meのあと彼をどう呼ぶべきか?
普通ならExcuse me sirというところだが、彼をサーと呼ぶ人はいないだろう。
たしかダライ・ラマのラマは彼の位を表す言葉だったはず、だからといってエクスキューズ ミー ラマといえば、名字を呼び捨てしているようで感じ悪い。
ここはフレンドリーにエクスキューズ ミー ダライと呼んでみようか?
取り巻きに睨まれること間違いなし。
どうしよう、どうしよう、と焦っているうちにダライ・ラマは僕の前を通り過ぎてしまった。
絶好のシャッターチャンスをむざむざと撮り逃してしまった自分が情けなく、壁にもたれて頭を何度もぶつける、そんな夢だった。

朝起きて、この夢のことを考えた。
そうだ、ダライ・ラマがホバートに来るんだ。
彼は今74歳、これが彼に会える最後のチャンスかもしれない。
メディアパスをとれば間近で彼に会える。
もちろん写真も自由に撮れる。
しかし、今回はそうしなかった。
メディアとして行動を起こすには少し遅すぎたという部分もあったが、それよりも今回のチャンスは写真の仕事抜きで体験したかった。
仕事になると撮ることに集中しすぎ、ゆっくりと世界を代表する賢者の凄さを味わえない気がしたからだ。
結局、ギャビーと一緒に一般のお客さんとして彼の講演会に行くことにした。
70ドルのチケットは彼女が僕にプレゼントしてくれた。

ダライ・ラマを見たのは昨日のことだ。
会ったというには距離が遠すぎる。
話を聞いたともいえるが、僕的には生きているうちに本物のダライ・ラマをこの目で見て、オーラを感じることが出来きただけでもう大満足だった。

彼は話の合間、合間によく笑う。
彼の笑いにつられて聴衆も笑う。
「自然体」という表現は、まさに彼のためにあるような言葉だ。
もし、彼がたまたまカフェのテーブルで隣り合わせたら(そんなことはあり得ないが)、彼がどんなに偉大な人だと分かっていても、近所のおじいちゃんと世間話をするように、リラックスしてなんでも話せそうな気になる。
チベット語で彼が話をし、誰かが英語に訳すと聞いていたが、あやふやな単語を通訳に聞く以外、すべて彼は英語で話をした。
「皆さん退屈かもしれないが」といった時「you are boring」という表現を彼は使った。
これは僕を含め、外国人が英語を話す時によくやる間違い。
「you are boring」は「あなたは退屈な人」という意味で「you are bored」「あなたは今退屈な状態」という表現をするのが正しい。
彼もいっていたが、世界の賢人である彼も、うだつのあがらない僕も、母親から生を受けた、同じ一人の人間なんだ、と実感した瞬間だった。
世界の賢者だって英語で苦労し、間違えもする。

世界の環境問題についての講演だったが、話の内容はバラエティにとんだものになった。
色々な話の中で僕の心に残った言葉を少し紹介したい。
1、幸せになるためには自分自身に自信を持たなくてはいけない。自分に自信がないと人を疑う。どんなに富を得ても自分を疑い、人を疑う人生に幸せも、心の平和も訪れないと彼は言っていた。
2、社会の変化、環境の変化、人間の変化、世の中の変化、全ての変化は突然空から降って来るものではない。一人一人の人間が行動を起こさなければ、いかなる変化も起こらない。一人一人が行動を起こすためにはその人の心の中に変化が起こらなければならない。心の変化は一人一人が物事を良く考えなければ起こらない。
「考えなさい」と彼は何度も言った。
「ホバートは小さな街だから忙しい大都会の人たちより、考える時間はたくさんあるでしょう」というと会場に笑いが広がり拍手が起こった。
3、「私はいまでも毎日5時間のメディテーション(瞑想)をしている」といっていた。

ダライ・ラマに会えて本当によかった。

あ、そう、そう、もしあなたにダライ・ラマに話しかけるチャンスが訪れたときは「ユア ホリネス」(your holiness)という表現を使いましょう。
ローマ教皇などに話しかけるときと同じ表現。(普通はそんなチャンスなかなかないよなぁ、、、)
Excuse me your holiness. May I take your photograph please?
知ってれば夢の中でダライ・ラマの写真が撮れたのに、、、。
















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タスマニアのローカル紙マーキュリー、今日の一面。








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by somashiona | 2009-12-09 13:27 | デジタル

オーガズムちょうだい!




最近参加したカクテル・パーティでの話。
ちなみにカクテルはコックテイルと発音する。
だから、コックテイル・パーティ。

パーティに集まった人たち、平均年齢は35才といったところだろう。
政府のお役人さん、心理学者、アフリカ中を駆け巡り装飾品を集める人、大工さん、小学校の先生、アーティスト、誰と話をしても話題が尽きることなく、とても楽しいパーティだ。
そんなパーティも終盤に入り、このパーティのホストが声を張り上げこういった「さあ、みんな、今日最後のカクテルを作るよ!この素晴らしいパーティを飾る最後のカクテルの名は、、、」
一同、一瞬しぃ〜んとなり、彼を見つめる。
「オーガズム!」とホストが叫び、一同から歓声が沸き上がる。
女性たちは「きゃ〜、素敵ぃ〜、オーガズム欲しいぃ〜、いっぱい欲しいわぁ〜」「いやぁ〜ん、ダメ、ダメ、私が先よぉ〜、私より先なんて許さない〜」
で、男性たちは「オーケー、僕で良かったらいくらでもあげるよ」とか「言っとくけど今夜のオーガズムは特別だからね、覚悟はできてるかい」とか、もう好き放題なことを言いはじめる。(18才未満はお断りのパーティ)

僕の隣にいた女性が「ねえ、あんた、さっきからチュパチュパすすっているそのドリンク、まさかジンジャーエールじゃないでしょうね」と低くハスキーな声で僕に言う。

彼女がthの発音をするとき、舌に刺したピアスが見える。

「ま、まさか、これはストレートのジンジャービアーだよ」と言い訳(僕はげこ)。

「ようするにソフトドリンクじゃないのさ」と言って僕を見る彼女の眼は睨んでいるのか、酔いで眼が据わっているだけなのか判断しかねる。
細身の身体に黒っぽいトーンで決めたファッションから、今でも熱心なロックファンだという主張がみえる。
30才になったかならないかくらいの年齢だろう。

「ねえ、あんただってオーガズムは欲しいでしょ」

「そりゃもう、いつだって、どこだって」と僕は餌を鼻先でゆらゆらさせられたワンちゃん状態。両手が胸の前で垂れていなかったか心配したくらいだ。

「ここで待ってんのよ、今あたしとあんたの分、取ってくるから」きびすを返したショートヘアの首筋にタトゥーが見えた。

「いや、いや、ちょっと待った、僕はアルコールだダメなんだ」と負け犬のようにきゃんきゃん吠える僕。

彼女は振り返り「なによ、あんた、ふざけんじゃないわよ、さっきオーガズムが欲しいっていったばかりじゃない!」と、もの凄く怖い形相で僕の顔の20cm前まで詰め寄る。
やばい、完全にからまれてる、、、どうしよ、、、。
怒れば怒るほど妖艶な空気をまとうタイプの女性が時々いる。
この場から僕が逃げ出せないでいるのは彼女がそんなタイプの美人だからだ。

「わたしがオーガズムをあげるっていってるのに、あんた、断るつもり!」近づけた彼女の口から漏れる息はカクテルの甘い香りがする。
あの舌に刺したピアス、どんな感触だろう、、、普段は働かない僕の脳みそはこういう時に限って1秒間にたくさんのことを考える処理能力を発揮する。
頭の中は逃げろ、マナブ、逃げるんだ、と指令を出しているのに、本能が身体を金縛りにしている。
「オレのすすめる酒が飲めねぇ〜っていうのか!」という日本のオヤジたちのセリフならいくらでもあっさり断れるのだが、、、。

「じ、じゃ、僕がかわりにたくさんのオーガズムをあげるよ。君が楽しんでくれるなら、僕はそれでいいんだ、、、僕が日本の伝統的な正しいオーガズムをあげるから、、、」とオーストラリアで武士道を伝授する勇ましいサムライの姿を僕はイメージする。
「ラストサムライ」の渡辺謙、「たそがれ清兵衛」の真田広之になりきろうとする。

怖い顔をしていた彼女が突然吹き出し、「ねえ、ねえ、本気で怒っていると思った?酔った性悪女にからまれたと思った?あんまり心配そうな顔するから、可哀想になっちゃた」と笑い声をあげる。
怒った顔は綺麗だったけど、笑った顔もいける。

そのあと、彼女はオーガズムで、僕はコカコーラで話が盛り上がった。
自分にとってのヒーローは誰?という話になった時、「君のヒーローはU2のボノかジョン・ボン・ジョヴィだろう」と僕はいったが「わたしのヒーローはダライ・ラマよ」と彼女は笑って答えた。

アルコールを口にしていない僕が彼女をアパートまで送り届けたが、カクテルのオーガズム以上の出来事は何も起こらぬクリスマス前の清しこの夜だった。














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注)テキストと写真は無関係です








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by somashiona | 2009-12-08 20:21 | デジタル

売れるものは、いいものか?



友人から日本の単行本をしばらく借りたままになっていた。
海外で生活していると日本の本にいつも飢える。
日本から送られてきたお菓子を食べる時、食べ終わった袋の底に少し残ったお菓子のかすまで大切に食べるように、日本の本も大切に読む。
借りた本を今年中に返さなければと思い、2日で一気に読んだ。
昼間は本を読む時間がないので、この2日間は寝不足だった。
作家の長者番付にも名を連ねるという、今人気の作家の作品だと聞いた。
2〜3ページ読み進め、とても嫌な予感がしたが、人気作家の代表作に酷い外れくじはなかろうと、さらに読み進めた。
2日目の朝3時半に読み終えたばかりのその本をビリビリと破り捨てたい衝動に駆られた。
そうしなかったのは、友人から借りている本だったからだ。

世の中で人気のあるもの、売れているものを見回すとうんざりすることが多い。
それが洋服や車だったりすると僕の意識の範疇にないので、もうどうだっていいのだが、それが映画、本、絵、写真となると僕は「人は人じゃあすませねーぞモード」に入ってしまう。
その意識が特に一番強いのはやはり写真に関してだ。
いい写真、悪い写真は人それぞれ、それはテイストの問題だ、という人がたくさんいるが、少なくても僕自身の写真の判断基準にそういう考え方は存在しない。
いい写真とそうでない写真、その違いは明らかだ。
世の中で評価されている写真を見るとき、いい写真は僕にとってそんなに多くない。
(ここでは僕の写真がいい写真かどうかという痛いところには触れないで欲しい。いい写真が撮れることと、いい写真が分かること、これはまったく別の問題だから、、、汗)
良くもないのに評価されている写真を見ると「おい、皆、何を見てるんだ、これにハートを感じるか?なんでこれがいいのか僕が納得するよう教えてくれ!」と叫びたくなる。(ジェラシーじゃない)
この感覚は仕事の現場でよく感じる。(ほら、やっぱりジェラシーだ、といわないように)
まあ、無名の田舎のフォトグラファーの戯言だと思って聞いて欲しい。(この一言で決まりだな)
写真でお金を貰っている人の仕事を見て、プロを感じる機会がどんどん減っているのだ。
僕が写真をはじめた頃は、「やっぱプロは違うなぁ、、、」と心の中で呟く仕事がまわりに溢れていた。
しかし、写真がデジタル化してからプロを感じる仕事にあまり出会わなくなってきた。
どうしてだろう?
写真の怖いところは「撮れちゃうこと」だ。
写真一筋30年の人も先月カメラを買ったばかりの人も、たまたま同じ場所、同じ時間、同じ光、同じシャッタースピードと絞りの組み合わせ(プログラムオートであっても)、同じ構図で、ある一枚を奇跡的に押さえたとしたら、両者ともほとんど変わらないクオリティの写真が(カメラの性能の劇的な進化もあって)撮れてしまう。
これが本、音楽、絵画、彫刻、映画などを作るとなると、そういう偶然ほとんどあり得ない。
すごいと思わせることが出来るスキルを身につけるためには相当な時間を要するだろう。
しかし、写真は「撮れちゃう」のだ。
ここを勘違いしてフォトグラファーになってしまう人が多すぎる。
僕が一番良く知っている人間では、まさに僕がその一人だ。
フォトグラファーならすぐになれると、正直言って思ってしまった。
なんせ、シャッターを押し、それがいい物であれば、作家が一年かけて書いた小説、画家が長年にわたり積み重ねたスキル、膨大な予算をかけて作った映画、と同様完結した一つの作品が出来上がってしまうのだから。
たしかに、フォトグラファーは資格も何もいらないので、なろうと思えば誰でも明日からなれる。
でも、僕は今にして思う、たとえどんなに努力しても、その中でいいフォトグラファーになれるのはほんの一握りの人だけなのだと。
厳しい競争の中で多くのことを写真に捧げたほんの一握りのいいフォトグラファーが社会で活躍するのなら僕も納得できる。
しかし、現実は違う。
いい写真じゃないのに活躍し、いい写真を撮っているにも関わらず受け入れられないフォトグラファーが多すぎるような気がする。
これはフォトグラファーの問題というよりも、写真を評価する人たちの問題なのだと僕は思う。
「撮れちゃう」写真と同じ深度で「見ちゃう」人たちの問題だ。
世の中、テクノロジーが凄まじい勢いで進化するにつれ、自分の目で見て直接体験せずに、Googleで集めた情報で知識を積み上げていき、物事の善し悪しを判断する人が増えている。
そういう人たちが写真も同じように扱う。
安く請け負うフォトグラファーを見つけ、手っ取り早く仕事の内容を伝え、撮った写真をさらりと見て、あれれ?と思うものを選びだしてしまう。
写真が放っている匂いを感じ取れない。
そういう人生を送っていないから。
写真という一枚の中に何万語にも相当するメッセージが込められた暗号の集まりを解読できる能力なしで写真を選んでしまう。
暗号を解く努力をせずに、答えを先に見てしまうことに慣れているから。
もし、その暗号をしっかり解読することが出来たのなら、フォトグラファーがやり遂げた仕事に感嘆するだろう。
ああ、写真の力って凄いんだ、と自分がそれを選ぶ権利のある人間であることの重要さに改めて気がつくだろう。
その能力を持っていない人たちが選び、作り上げたものを多くの人たちが日常的に目にし、それが一般大衆にとってのいい写真のスタンダードになる。
これは恐ろしくもあり、悲しいことでもある。
写真を撮る人間にも、写真を受けとる者たちにとっても。
なぜか話は戻るが、人気作家の破り捨てたくなった本を読んだ時、同じ種類の怒りと悲しみを感じた。
これがウケる世の中なのか?
深みってものが全然ないだろう!
いい作家はもっと、もっとたくさんいるじゃないか!
これじゃ、真面目に書いている人にあんまりだ!と。


雑誌の編集者やライターからメールが届くたび、その短く洗練された文章を見て、さすがプロ、と唸ってしまう。
画家である僕の子供たちの母親が子供たちのリクエストに応えてチラシの裏に様々な動物や似顔絵を描くたび、その無駄と迷いのない線を見て、さすがプロは違う、と唸ってしまう。
ダンスの先生が週末にプライベートでパブを訪れ、そこで軽くステップを踏む姿にはスポットライトが当たっているように見える。
ナショナルジオグラフィック誌のスタッフフォトグラファーを30年以上勤めあげたブルース・デイルさんと雑談をしていた時、アメリカにいる家族や孫たちのスナップショットを見せてくれた。
多くのフォトグラファーと同じように彼もまた、たとえオフの日であっても小型のコンデジ一台は必ず肌身離さず持っている。
彼のスナップを見て僕は顔が引きつった。
コンデジで撮られたスナップたちを引き伸ばしてフレームに入れれば、すぐに銀座のギャラリーで写真展が開ける。
プロになって軽く10年以上経っている僕が思わず「やっぱ、プロは違うな、、、」と呟き、一人で赤面してしまった。

これだけ卓越したプロの技と感性にしっかりと応える媒体が今どれだけあるだろうか?
「雑誌はもう終わってしまった」と彼がぽつりと呟いたその言葉が耳に残って離れない。














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テキストとはまったく無関係の、シダの葉に覆われた場所で泣くミモちゃん














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by somashiona | 2009-12-04 22:24 | デジタル

ハウス・ウォーミング・パーティ



オーストラリアでは家を購入したり、新しい賃貸住宅に引っ越ししたりすると、その一週間後くらいにハウス・ウォーミング・パーティをいうものを開き、友人たちに自分の新たな生活をお披露目するのが一般的だ。
僕のように引っ越ししてから3ヶ月以上経つにもかかわらず、まだハウス・ウォーミング・パーティをしていない場合、人間関係に多少の摩擦が生じるのを覚悟しなければならない。

「あれ、住所変わったの?」と友人。
「うん、このまえ引っ越したんだ」と僕。
「この前っていつ?」と怪訝な顔で友人。
「え〜と、3ヶ月くらい前かな、、、」と語尾が小さくなる僕。
「ふ〜ん、そう、そんなにまえなの、、、」顔に失望の色が浮かぶ友人、それは私はハウス・ウォーミング・パーティに呼ばれていないわ、という意味。
社会性に欠ける人間はこれだから困る。

自分の住む家に大勢の人がくるのは、正直いって苦手だ。
A君としゃべっている間にB子さんが本棚に並ぶ本をチェックし、Cさんキッチンですかすかの冷蔵庫を勝手に開け、D氏は見るべきものの少ない僕の家の中で眼のやり場に困る。
僕の家にはまともな家具や装飾品がない。
写真の一枚すら壁にかかっていない。
「これはとりあえず生活が落ち着くまでの、つなぎの生活にすぎないんだ」という思いが常にあるので、家の中をそれらしく整えることが出来ないのだ。
以前僕が生活した「とりあえず」のフラット(アパート)は1年の予定だったにもかかわらず、5年という月日を過ごしてしまった。
引っ越しした時に持ち込んだいくつもの段ボール箱が開けられぬままに。

ある日、僕が家の中の掃除機かけに夢中になっている時、友人がハウス・ウォーミング・パーティの招待状を持って現れた。
手づくりの招待状を見てみると3:30pmのハウス・ブレッスィング(House Blessing)と6:00pmからのバーベキューパーティ(BBQ Celebration)の二部構成になっている。
今までいろんなハウス・ウォーミング・パーティにお邪魔したが、これは初めての経験だ。
週末、僕は子供たちと一緒の予定だったので3時半からはじまるハウス・ブレッスィングにお邪魔することにした。
子供たちとカードにメッセージを書き込み、プレゼントの大きなサボテンを買った。

僕たちを招待してくれた友人の女性はとてもいいコンディションの家を購入した。
玄関のまえでそこにいた人たちとおしゃべりをしていると神父さんがやって来て、ハウス・ブレッスィングのセレモニーが厳かにはじまった。
と、いっても僕のこのハウス・ブレッスィングをいうのを一度も見たことがなく、何をやるのかさっぱり分からない。
招待された人たち全員に小冊子がわたされた。
こそには神の言葉が書いてあり、僕たちは神父さんに習ってその言葉を復唱する。
結婚式の時に教会のチャペルで参加者たちが小冊子を渡され、賛美歌を唄うのと少し似ている。
ハウス・ブレッスィングの儀式そのものはいわゆる日本でいうところの祈祷師さんがやるお清め、お祓い、そう地鎮祭のようなものだ。
家の外からはじまり、神父さんが神の言葉を放ちながら居間、寝室、キッチンなど全ての部屋をくまなくまわる。
その時、神の言葉と共に聖水をまき散らす。
日本ならさしずめ塩をつかう場面だろう。
周りにいた人たちに「次は何をやるの」「今度はどこにいくの」と僕が小声で聞いても皆「全然見当もつかない」と答えるばかり。
僕の友人の家庭は敬虔なアングリカンチャーチ(イギリス国教会)の教徒らしく、ここに招かれたほとんどの人たちも生まれてはじめてこの儀式をみたと僕に教えてくれた。

はじめての儀式を「ふ〜ん」と思いながら眺めていた僕だが、ベッドルームで神父さんが神の声を腹の底から振り絞り、僕の友人に聖水をふりかけるのを見ているうちに言葉にならない恐怖のようなものが沸き上がってきた。
近寄りたくても神父さんに近寄れない。
な、なんだ、僕は何をそんなに怖がっているんだ、ひょっとすると知らないうちに僕の身体の中に魔物が住み込み、神父さんの言葉がそいつを苦しめているのだろうか、と自分にうろたえてしまった。
そして、突然ある名前が頭に浮かんだ。
「リーガン」、あっそうだ!ベッドの横で魔よけの呪文を唱えながら聖水をリーガンにふりかける神父、「エクソシスト」だ!
(ごめんね、僕の友)
子供の頃、あんなに僕を怖がらせた映画はない。
ベッド、女性、神父、聖水、呪文、エクソシストの世界をはじめて僕は目の前で見たのだ!
(ごめんね、僕の友)
しかし、そんな思いも聖水が降りかかるたびだんだんと薄れ(降りかかる聖水からカメラのレンズを守るのに必死だっただけとも言えるが)、やがて僕の心もこの家とともに清められ、穏やかになった。
貴重な経験をさせてもらったハウス・ウォーミング・パーティだった。
















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by somashiona | 2009-12-01 18:14 | デジタル

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