透明人間になる
写真をはじめた頃、僕はニコンFM2にモノクロフィルムを入れて毎日、毎日札幌のストリートショットを飽きずに撮っていた。
とにかく、一日最低一本と決めて、気が乗っても乗らなくてもシャッターを押した。
その頃の悩みはどうすれば自分が見たストリートの自然な空気、人びとの自然な表情を切り取れるか、ということだった。
カメラを持っている人が被写体のすぐ目の前にいるのに、それをまったく感じさせない写真、そういう写真を目指していた。
そんなとき見た写真集がドアノーだった。
1912年、パリで生まれ育ったロベール・ドアノーはフランスの日常を素晴らしい感性で切り取った人だが、そんな説明よりこの一枚を見れば皆「あぁ〜、これを撮った人ね」と言うだろう。
この一枚はストリートショットの金字塔となる一枚であり、この写真に影響されたストリートフォトグラファーを量産しただけでなく、肖像権の問題を巡り、つい数年前もこの写真のモデルになったのは、僕だ、私だ、と言い出す者が現れるほど何かと物議を醸し出す一枚となった。
しかし、この写真はドアノーの素晴らしい写真たちの中のほんの一部でしかない。
彼のスナップショットの中には人間の物語がある。
何気ない一枚をよぉ〜く眺めれば、映画の一コマのようなストーリーを写真の中から読むことができる。
そうかと思えば考えるまでもなく超シンプルに、そして超ストレートに僕たちに語りかける写真もある。
こういう写真をパソコンのモニターで見ると、こんな小さなサイズでも、こんなクオリティのわるいモノクロの諧調でも(オリジナルプリントは美しいはず)そのことについて文句を言う気分にならない。
写っているものが確かなので、そんな技術的なことはどうでもよくなる。
デジタルカメラが進歩するにしたがって、そういう一枚がなぜか減っているような気がする。(だからフィルムの方が良いというつもりはまったくない)
彼の写真集を買ったとき、彼が写す子供たちの写真に心から憧れた。
子供が生き生きしていてドアノーが黒い箱を抱えて彼らを見ていることなどみじんも感じさせない。
このとき僕は本気で思った。
「透明人間になりたい」と。
ドアノーは透明人間だ、一体どうすればなれるんだ、、、。
そんな悩みを繰り返しながら15年以上の時が過ぎた今、写真を撮るとき、透明人間になりたいとはもう考えなくなった。
なぜなら、透明人間にはなれないと分かったからだ。
これはやっぱりムリ。
それでも、僕の写真の中に感じる僕の存在は以前より何十倍も薄れていったと思う。
それは、ストリートのスナップショットは別として、特定の被写体を追いかけているとき、被写体と自分との距離が近づけば近づくほど僕の存在が薄れていくということが分かったからだ。
相手が僕を受け入れてくれれば受け入れてくれるほど、僕が被写体にレンズを向けているという行為はお日様の光が被写体に当たっているのと同じくらい自然なことになるのだ。
たぶんドアノーはそれを会った人たちに対し、瞬時にできる人だったのだろう。
人を撮るという写真の分野に置いて努力、研究しなくてはならないのは写真の技術よりむしろコミュニケーション能力だったりするのかもしれない。
いい写真を撮るために、もっと修行を積まなくては、、、。
テキストとはまったく関係ないけど、子供つながりということで、久しぶりにミモちゃんの写真を!
注)モノクロの写真はすべてロベール・ドアノー
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by somashiona | 2009-09-21 09:05 | 写真家