ポートレイトらしいポートレイトを撮りたい







最近、自分の撮るポートレイトについていろいろと考えはじめている。
考えはじめている、というと今まであまり考えたことがないように聞こえるので、言い直せば、改めて考え直している、というほうが正しい。
普段いろいろなものを写真に撮るが、つまるところ自分はポートレイト・フォトグラファーじゃないかと思っている。
やはり人を撮ることに一番こだわりがあるのだ。
ポートレイトを撮るうえでその時々にお手本となるフォトグラファーがいる。
フランソワ・ジョンベルだったり、ジャンルー・シーフだったり、そういった好きなフォトグラファーの写真集やオリジナルプリントを穴があくほど見つめ、そのスタイルをモノにするよう努力する度、まったく彼らのスタイルにはならないけれど、間違いなく自分の写真の質は上がっていったような気がする。

タスマニアに住みはじめて以来そういうことを一切しなくなった。
ここは田舎だから最先端の写真の情報などまったく流れてくるわけもなく、写真のムーブメントを追いかけられなくなったことも理由の一つだが、一番大きな理由は型にはまらない自然なポートレイトを撮れるようになりたかったからだ。
自分流が何なのかを模索し、正面から見つめたかったのだ。
その結果が最近の僕の写真で、ポートレイトというよりスナップショットに近くなっているような気がする。

仕事でもプライベートでも、ポートレイトを撮る時は口では言い表せないような興奮と不安が入り交じる。
目の前には写真に撮られのを待っている被写体がいて、僕はその人のことをろくに知らない。
もじもじと絡めた自分の指先から決して目を離さない人もいれば、ありありとその目に猜疑心を浮かべ僕を睨み返す人もいる。
能力がないのであれやこれやとやってみながら時間を稼ぐ。
とにかくシャッターをたくさん切るのだ。
「時間稼ぎをしているうちに『これだ!』というものが天から降ってこなかったら、いったい僕はどうすればいいのだろう」という気持ちと「大丈夫、落ち着け、この人物をよく見るんだ。この人の何に僕は惹かれるんだ?周りにこの人を浮き立たせるものがないか?光はこれでいいのか?ほら、見えてきただろ。あとは焦らずゆっくりとシャッターを切るだけさ」という気持ちが毎秒ごとにせめぎ合う。
被写体と対峙した時は毎回ギャンブルをしているようなものだ。

ここ最近、ポートレイトらしいポートレイトを撮りたいという欲求がかなり高まっている。
基本的には写真館で撮るような感じの写真。
こてこてのポートレイト。

イギリスのセレブリティ・フォトグラファーであるランキン(RANKIN)のポートレイトはシンプルなのだけどポートレイトの核がある。
たぶん同じモデル、同じライティング、同じ構図で誰かが撮ったとしてもランキンの写真にはならないだろう。
シンプルでストレート、なのにインパクトのある写真にはどんな秘密が隠されているのか?
彼の写真に見え隠れするのは、フォトグラファーと被写体にしかわからない交信の痕跡なのだと思う。
ランキンは被写体の魅力的な部分を即座に見つける力とこの交信能力に長けているのだと思う。

ランキンの写真が僕がイメージするこてこてのポートレイトなのかといえばそうではない。
欲しいものはちょっと違うのだ。
そんなとき、メルボルンのナショナル・ギャラリー・オブ・ビクトリアで素晴らしい絵画を見て、欲しいものはまさにこれだ!と思った。
どうして写真じゃないのに人間の素晴らしい瞬間を切り取り、描くことが出来るのだろう?
彼らは被写体をとことん見ているのだと思う。
じっくり、じっくりと見て、頭の中に定着した何かを描いているのではないか?
そういえば、僕もいいポートレイトが撮れたと思った時は、ファインダーを通して見た一瞬が頭の中にずうっと残っている。
あ、巨匠たちと自分を比較してはいけない、、、。
とにかく、「よく見ること」そして「そこに浮かび上がるものをすくい取ること」それが大切なのではないか?
これは写真を撮る上で基本中の基本なのだけど機材の進歩によってなぜか忘れてしまいがちなことだと思う。








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カメラはカメラ・オブスキュラ(素描を描くために使われた光学装置)としてその歴史をスタートさせた故に長い間絵画を越えることが出来なかった。
才能ある写真家たちの努力によって、写真が絵画と比較されることなく芸術作品として認められはじめたのはごく最近のことだ。
なのに僕のポートレイト観は写真の歴史を逆行しているらしい。
写真の歴史、とりわけポートレイトの歴史を辿ると1940年代からセレブリティー・フォトグラファーとして突っ走ってきたトルコ生まれのカナダの写真家、ユーサフ・カーシュの写真たちがもっとも僕の求めるポートレイトらしいポートレイトに近いのではないかという結論に達した。
代表作はウィンストン・チャーチルだろう。








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写真撮影を聞かされていなかったチャーチルがカメラと照明と共に待ち受けていたカーシュを見て「どういうことか誰か説明しろ」と騒ぎだした。それでもなんとかカメラの前にたち、葉巻に火をつけポーズを付けたところカーシュがチャーチルに近寄りその口から葉巻を抜き取った。それにカッとしたチャーチルをカーシュは見事にカメラに収めたのだ。

ポートレイトを撮るとき、被写体がどんなに大物であろうと自分がその場を仕切る人間にならなければいけない。
かといって、高飛車な態度をとると撮影そのものを台無しにしてしまうのだが、それでも撮影においてフォトグラファーがイニシアチブをとるということは撮影の絶対条件だと思う。

カーシュは8x10の大判カメラで写真を撮る。
三脚にカメラを固定し、ライティングも被写体が来る前に終わらせ、被写体がカメラの前でポーズをとっても、最高の瞬間が訪れるまでなかなかシャッターを切らない。
撮るほうも、撮られるほうも、お互いに対峙しあう時の緊張感はもう堪らないものがあるだろう。
彼の写真にはそんな人間と人間が真っすぐに向き合った結果生じる正直さや、潔さがある。
後で削除すればいいさ、と思いながらいい瞬間が訪れるまで時間稼ぎのシャッターを切り続ける僕とは大きな違いだ。

そんな正面から真っすぐ向き合うポートレイトらしいポートレイトを僕は撮りたいのだ。

その決意の証として、僕は一本のレンズを買った。(まずはかたちから入ります)
迷ったあげくシグマの50mm f1.4にした。
僕のカメラに付けるとフィルム換算で80mmになる。
その話はいずれまたすることにしよう。
今日は長くなったので、写真談義はこの辺で。

スィ〜ヤ!(See ya!)









Celebrity Photographer Rankin to photograph 1000 ordinary people











KARSH IS HISTORY


















注)美術館は写真撮影OKでした。










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by somashiona | 2010-06-16 22:29 | 写真家

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