東日本大震災について思うこと





本を読んでいるうちにソファで眠りこけてしまった僕は突然の電話の音で飛び起きた。
携帯に耳を当てると、友だちが興奮した声でこう言った。
「テレビ観てる?!日本が大変なことになっている、早くテレビを観て!」
「わかった」といって僕は電話を切り、寝ぼけ眼でパソコンに繋げるデジタルテレビ用のケーブルを探した。
家にあったテレビは捨ててしまったので、テレビを観たいときはこうやっていちいちパソコンにケーブルを繋げるのだ。
チャンネルを選ぶまでもなく、ジャパン アースクエイクという大きな文字が眼に飛び込み、家の屋根や木材、そして車などを飲み込んだ真っ黒な波が生き物のように地面を這う映像が流れてきた。
ちょうど数日前にクリント・イーストウッドが監督した「Hereafter」という映画を観たばかりで、その映画の冒頭は強大な津波がヒロインを飲み込むとてもリアルな映像だった。
まだ半分眠りの中にあった僕の頭は、この映像があの映画の続きなのか、それとも新しい映画の宣伝か何かなのか、状況を飲み込めずにしばらくパソコンの画面を眺めていた。
ソファの横においてあった飲みかけの冷えたコーヒーを飲んで、頭がスッキリとしてくるにしたがって、画面に流れている映像の意味を理解し、鳥肌がたった。
それから2日間、僕はほとんどテレビにかじりついていた。
どうしてなのか分からないが、僕はカメラを手にテレビを観ていた。
この状況をカメラに収めなければ、という切実な思いがあった。
それがパソコンの画面から流れる映像だということに気がつかないかのように、僕はパソコンの画面を撮り続けた。
なぜなら、この映像こそが僕が体験した東日本大震災なのだから。
そして、その2日間はスカイプも電話も通じず、母親とも妹とも連絡が取れなかった。

このブログを続けるにあたって、今回の東日本大震災に触れないわけにはいかない。
あまりにも様々な思いが心の中を交差し、この震災をどう捉えていいのかわからず、今までブログを更新できずにいた。
世界中で毎日のように尊い命が奪われている。
悲惨な事故、殺人、自爆テロ、ジェノサイド、戦争、そういったものは僕たちに悲しみだけでなく、憎しみや恨みつらみといった感情を起こさせる。
たぶん、怒りの矛先をぶつける対象があるからだろう。
しかし、自然災害は違う。
押し寄せる波に「馬鹿野郎、大馬鹿野郎、日本のあの美しい風景を返してくれ!僕の大切な人たちを返してくれ!」と叫んだところで、昨日何万の命を奪ったことなど忘れたかのように、波は静かな音を立てて浜辺に打ち寄せるだけだろう。
自然災害はどうしょうもない悲しみや無力感を僕たちに叩きつけるが、同時に自然の驚異、人間が地球の中でちっぽけな存在であること、そしてそこから何かを学ばなくてはいけないことを思い出させてくれる。

海外から自分の国である日本を眺めていると、ここ数年の日本がどんなに危うい状態なのかがよくわかる。
それは経済的なことばかりではなく、一言でいえば日本人のメンタリティのようなものがなによりも危ういと感じていた。
不謹慎な言い方だけど、日本は一度どん底に落ちないと本当の意味で立ち上がることは出来ないだろうと僕は個人的に思っていた。
一度ゼロに戻って、他の国にはない新しい基準やスタイルを確立するしかないのでは、と思っていた。
今回の地震と津波、そして原発事故のような犠牲者を出すリセットのしかたはもちろん想像もしていなかったが、でも、この多大な犠牲を日本が再び立ち上がるバネにしないでいったいどうするんだ、という気持ちは押さえられない。
今日本では節電や停電などで多くの人たちが不自由な思いをしているだろう。
ここタスマニアでは寒くなれば多くの人が家の中でジャケットをはおり、毛糸の帽子を被って過ごす。
多くの人が住む住宅街でも夜になると足元が見えないほど暗い。
勿論、道路にはほとんど街灯のようなものがなく、街から離れた場所で夜ヘッドライトを消して運転すれば、まるで宇宙の中を漂っているような体験ができる。
多くの人が資源というものには限りがあるのだと自覚し、少しでも自然にインパクトのない暮らしを心がける。
夜7時になればほとんどの店はシャッターを下ろし、人々は家族や大切な人たちを時間を共に過ごす。
この感覚に慣れた僕は日本に帰国するたび、あのエネルギーの無駄使いや立ち止まって足元を見るヒマもない日本の時間の流れに閉口してしまう。
昨日友人が真っ暗な東京の街の中の写真を送ってくれた。
なんとも不思議な光景だった。
こんな東京の姿、僕は一度だって見たことがなかった。
でもそれは落ち着いた趣きで、不思議と綺麗だと思った。
こういう日が時々東京にあれば、きっと良いことがたくさん起こるに違いない、という気さえした。
あの悲惨な映像を見て、不安な夜を共有して、日本人の気持ちは今、今までかつてないほど一つになっているのではないか。
「なにかしないと」「何が出来る」と誰もが落ち着きなく考えているのではないか。
多くの日本人が今、他の誰かの気持ちを思いやり、痛みや辛さを自分のことのように受け止めているのではないか。
命あることに感謝すること、人のために何かをしようと思うこと、自然をリスペクトすること、実際に有益な行動を起こすこと、そういう気持ちが長く続き、そういう大人たちを子どもたちが見て育っていけば、日本は前よりもずっといい国になると思う。

海外で暮らす僕はこの震災に関して日本に住んでいる人には体験できない貴重な体験を日々している。
あの震災が起こって以来、今まで何人の人たちからメールや電話をもらっただろう。
会う人、会う人が僕にまったく同じことを訊ねる。
「マナブ、日本の家族は大丈夫か?友達とは連絡が取れているか?本当に大変なことになったね。君の国や日本の人たちのために祈るからね」
本当に誰しもそう声をかけてくれる。
時には道を歩いていると、知らない人に呼び止められ、「日本人か?」と聞かれ、そうだと答えると、「今晩、君の国の人達の為にキャンドルを灯すからね」と言ってくれたりする。
ああ、僕たち日本人というのは、なんて多くの人から愛されているんだろう、と実感する。
戦争や国際問題が起こるたびに日本は大金を払ってきた。
人はよこさず、お金だけ払う、みたいなイメージがなきにしもあらずだったが、でも、日本は常に多くの国に手を差し伸べてきた。
この震災が起きてから各国の首脳たちはほとんど同じことを言ってくれた、「僕たちは日本のためにどんなことでもするよ」と。
名前は忘れてしまったが、韓国人の国連事務総長の日本への言葉にも僕は感動してしまった。
僕たちは多くの国から今注目され、見守られている。
暴動や略奪がないこと、激しい揺れの中、身を呈して商品棚を押さえるパートタイムのスタッフ、交通昨日が麻痺し不便を強いられても文句を言ったり、取り乱したりしない人たち、食料を配られるとき奪い合いにならない避難所の人たち、こういったことは海外では本当に驚異だ。
テレビで日本の地震に関するオーソリティの学者がこう言う、「皆さん、日本人というのは学校に通っている時から地震の際の避難訓練をしっかりと受けているのです。なので、揺れを感じたら机の下にもぐるとか、指定された避難所へ列になって移動するなどといった行動を冷静にとることができるのです」と。
こういうことに、海外の人はとても驚くのだ。
地震の避難訓練を年に一度行う国など世界にはそうそうない。
君の国は本当にすごいよね、と多くの人から言われる。
そう、日本人は実はすごいのだ。
日本人の優秀さ、勤勉さ、そして底力をもっと、もっと見せて欲しい。
まずは金銭的な援助を、そして時が来たら積極的にボランティア活動にも個人で、グループで、企業ぐるみでも参加して欲しい。
実際に自分の身を捧げてみないと分からないこと、気付かないことが世の中にはたくさんあるし、そこで気づいたことは必ず仕事や人生を豊かなものにしてくれると思う。
そして、こういう人々の協力の輪は必ず波紋のように外へ、外へ広がるだろう。
自分が参加することによって自分の住む町内のこと、地域のこと、市町村や道府県のこと、そして政治にも参加する流れにつながるかもしれない。
人ごとでなく、一人ひとりが考え、世の中を変えていこうとするムーブメントが起こるかもしれない。
くどいようだが、これだけの悲しい犠牲を出したこの天災をどうかチャンスに変えて欲しい。

最後にもう一つだけ言いたい。
僕は2日間テレビにかじりついたが、3日目からほとんど観なくなった。
民放ではたぶん一番人気のWINという放送局のリポーターが被災地に入り、悲惨な状況を語る。
片方の手をジーンズのポケットに突っ込みながらマイク片手に打ちひしがれた人々を追いかける。
BGMはもっともらしいメローな曲が流れる。
僕も仕事で経験があるが、テレビはこういう出来事をとことんエンターテイメントとして扱う。
フォトジャーナリズムをかばう訳ではないが、事件、事故の現場でテレビがやることは呆れるくらい作り物だ。
フォトグラファーたちは呆れ顔でテレビの仕事を眺める。
とくに有名なリポーターやアンカーマンが直接現場に入ったときは、ほとんどセットを組んだ映画のようになる。
どんなに深刻ぶった顔で話をしようが、悲しげな表情で語りかけようが、それは視聴率のためだ。
昨日のロイター通信が東京を写した映像でさえ「放射能汚染を恐れた東京の人たちは皆家の中に閉じこもり、街はまるでゴーストタウンのようだ」などと言っている。
もちろん全てではないが、多くのメディアの情報は嘘にまみれている。
NHKのラジオで必要な情報だけ入手し、後はテレビのスイッチを切って、奥さんや子供たち、恋人や友人と話をしたり、読書に時間をさいてはどうだろう。
蝋燭の火を囲んでする会話はいつもと少し違うはずだし、テントの中で本を読むように、頭にヘッドランプをつけて読む本は集中力も増すというものだ。

原発についても情報は真っ二つに別れ、多くの人が不安に慄いていると思う。
僕が子どもと一緒にあの周辺で暮らしていたのなら、その不安は半端じゃないだろう。
こんなときにいい加減な情報を流すジャーナリストや専門家と言われる人たちは、彼らの情報がまったく間違っていたと後でわかれば、罪を受ける対象になるべきではないかと思う。
言論の自由と言ってしまえばそれまでだが、こういう時の間違った情報は、嘆き悲しむ人たち、悲惨な場面を追いかけわますテレビカメラと同じようにたちが悪い。
正しく、はっきりとした情報をわかり易く、一元化することはできないのだろうか?
寄付も色々なところで立ち上がっているが、「全ての寄付は赤十字へ」というふうにしたほうがたまったお金を早く計画立てて使えて良いのではないか?
僕はオーストラリアン・レッドクロス(オーストラリア赤十字)へ寄付した。
会う人、会う人に「お願い、寄付してね」と言っている。
これが今僕ができる唯一のことだ。


黒船、戦後の復興、日本は危機に直面するたびパワーアップして蘇る民族だ。
かなり長い間、日本は本当の危機に直面していなかった。
(直面しているのに実感が持てなかった)
日本の皆さん、どうか頑張ってほしい。
力を合わせてこの危機を乗り越えて欲しい。


東日本大震災の犠牲者の方々に心よりお見舞い、お悔やみ申し上げます。




















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by somashiona | 2011-03-18 22:02 | デジタル

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