最近のシオナ
昨日、BBCのPodcast(ポッドキャスト)、World Book Clubで僕の大好きな作家ジョン・アーヴィングの公開インタビューを見つけた。
ジョン・アーヴィングといえば「ガープの世界」「サイダーハウス・ルール」「ホテルニューハンプシャー」「オウエンのために祈りを」など映画化されている作品も多いので、このブログを見てくれている人たちの中でも彼のことを知っている人は多いと思う。
世の中には「成功するための7つの法則」「人に愛される話し方」「心の悩みはこう解決しろ」みたいなHow to本が繰り返し繰り返し出版されているが、そういった類の本が自分の人生を支える力になってくれたという経験が僕には一度もない。
いつまでも心に残る言葉、生き方、考え方、迷ったときのアドバイス、未来への暗示を与えてくれるのは、いつだって大好きな本に出てきた登場人物たちだ。
本を読んでいて、「ああ、この人の生き方はなんて力強くて、素敵なんだろう」と思える登場人物、もしくは「ああ、そうか、善良な人ですら、こうやって間違いを犯すのか」というよな登場人物に本の中で出会えたとき、その人たちの思考パターン、言動は何にも代えがたい人生のお手本になってくれる。
インタビューは彼の代表作「ガープの世界」を中心に進んだ。
そのなかで、彼は、「もしも、愛する二人の子供たちを失ってしまったら、、、」という恐怖に当時常にかられていたことを告白していた。
この恐怖、僕も常に考える。
僕が思い描ける不幸や恐怖の中で、自分の子どもを失ってしまうことは最大級、最上級なので、ジョン・アーヴィングのこの告白に僕はとても共感した。
そして、その後に彼が語ったことに僕は新鮮な驚きを覚えた。
「物語を紡ぐことを仕事とする自分は敢えてその恐怖を登場人物に反映させるのです。一番起こってほしくないこと、それを敢えて登場人物に与えるのです」と彼はいった。
彼の長編小説に出てくる人物たちの一人ひとりの過程(誕生、可愛らしい子供としての成長、青年になり恋をし、大人になり、出会いや別れを経験し、そして老いて、死んでいく姿)は詳細に描かれているので、その登場人物が物語の中で死んでしまうと、まるで自分の家族の誰かを失ってしまったような深い喪失感に襲われる。
架空の出来事と分かっているにもかかわらず、立ち直るのにかなり時間がかかるのだが、最終的にその死を受け入れ、さらに前向きになれるのは、ジョン・アーヴィングが生や死を通して僕たちに生きることの素晴らしさを書いているからだろう。
彼の小説を読んで、毎回悲しみと喪失感を味わうのは、インタビューを通して、それが彼の狙いだったことを初めて知り、「うん、まんまとやられた」と思ったが、彼の物語の中で、人は最も大切だと感じている人や物を失っても、それでも星は輝き、太陽は昇り、生きている人は与えられた生を淡々と生きて行く、ということを何度も経験できたので感謝するしかない。
もし仮に、自分の身に不幸が起ったとき、現実は容赦なく僕を打ちのめすだろうが、それでも、苦しい時に小説の中で苦しみと戦った彼らのことを思い出すかもしれない。
ものすごく若い時に観たメリル・ストリープ主演の映画「ソフィーの選択」のあるシーンを僕はことあるごとに思い出し、そして考える。
アウシュビッツ収容所へ向かう列車から降りたソフィーは息子と娘をしっかりと抱きしめユダヤ人たちの長い列に続く。
焼却炉への死の列だ。
ソフィーがユダヤ人ではなくポーランド人だと知った酔ったドイツ人軍医がソフィーにこう言う。
「お前ともう一人だけ助けてやる。息子か娘、どちらか一人選べ」と。
ソフィーは泣く泣く息子を選び、くまのぬいぐるみを抱えた幼い娘を焼却炉への列に押しやった。
究極の選択、、、。
僕の疑問は、どうしてソフィーは息子を選んだのか、ということだ。
タスマニアのツアーガイドの仕事をしていたとき、とてもインテリジェンスな高齢のご夫婦と3日間を共にし、ガイドの仕事は殆ど忘れ、ありとあらゆる分野の話で車中盛り上がりっぱなしだった。
その話の中で、子供への愛に順位を付けられるかという話題になり、あの映画「ソフィーの選択」のシーンを僕は持ち出した。
このご夫婦にはもう成人になった息子さんと娘さんがいる。
奥様はあっさりとこう言った。
「たぶん、多くの場合、究極の選択を迫られたとき、母は息子、父は娘を選ぶわ」と。
「結局、オトコとオンナという異性間の関係、その強さは親子といえども否定出来ないのよ。男は女が好きで、女は男を愛するのよ」と彼女は笑った。
では、息子を選ぶ父、娘を選ぶ母には根底にゲイの要素があるのか?と突っ込みを入れそうになったが、確かにギリシャ神話など読むと、親子の間でも相手を異性として意識する強い感覚が常に匂ってくるので、この奥様の意見を一概に否定できず、「ソフィーの選択」のメリル・ストリープのとった行動の心理的理由が少し理解できた気がした。
自分ならどうか?
もしかすると、将来このブログを読む可能性がある子供たちのために、僕はハッキリとここに記しておく。
「子供たちよ、ダディは一人だけを選べない。もし焼却炉行きの選択を迫られたら、、、許して子供たち、僕たちは共に行く。三人一緒だ。」
とはいえ、身長も足も手も遥かに僕より大きくなり、最近声も少し変わってきたソーマ、もうおやすみのキスも素直にさせてくれない。
っていうか、大きくて、口の周りの産毛が少し濃くなってきた彼にキスをするのもなんか変な感じだな、と親の僕も不自然さを感じ始めている。
手をつないで歩けないので代わりに肩を組み、ハグさせてくれないのでレスリングで取っ組み合う。
その点、シオナはいくらキスしても、ハグしてもなんの不自然さも感じない。
黙っていてもシオナから手をつないでくるし、本を読んでいると後ろから抱きしめてくれる。
ああ、これが親子でも異性だと違うという意味か?
だけど、念の為にもう一度言っておく。
子供たちよ、ダディは二人のどちらも、同じだけ愛している。
その愛は ∞ インフィニティ(無限)だ。
ソーマの話が続いていたので、今日は最近のシオナの写真。
シオナが心から愛するもの、もちろん愛犬のアプリコット。
ちなみに、彼女の家ではもう随分前からアプリコットと呼ばなくなっている。
コディ、これがアプリコットの愛称だ。
「一番好きなことは何?」とシオナに聞けば、「絵を描くこと」という答えが返ってくるだろう。
最近は母親の仕事道具を使ってアニメーションを作っている。
僕のiPhone 4s、予想通り音声認識機能のSiriが子供たちのハートを捉えた。
特にシオナ、一日中、Siriに話しかけていた。
「Siri、友達はいるの?」
「Siri、スティーブ・ジョブズと会ったことある?」
「Siri、どこで生まれたの?」
「Siri、オナラとかウンチする?」
気の毒なSiriだ、、、。
子供たち、今やもうパソコンとの生活は切り離せないようだ。
どういう訳か、二人とも快適なデスクの上ではなく、カーペットの上、ソファの下、テーブルの下などでパソコンと時間を過ごしたがる。
心理学的にも机の下にもぐりこむと人間は安心するそうなのだが、そういうことなんだろうか?
PC(ウィンドウズのパソコン)、Mac、彼らは何の違和感もなく両方を使いこなす。
ビーチに寝転んで太陽の陽を浴びるシオナを見ていると、ああ、もうすぐに子供じゃなくなるんだな、と思ってしまう。
サンクリームで顔を作ってしまう感性は、いつまでも持ち続けて欲しい。
ソーマとシオナ、とにかく仲がいい。
ティーンエージャーになっても、そのまま仲良しでいて欲しい。
日常の何気ないシーン、例えば歯を磨いているシオナなど、ダディにはたまらなく可愛らしく映る。
はい、親ばかです。
ソーマもシオナも本を読むのがとても好きな子供たちだ。
二人とも物語より科学や体の不思議やクイズといった類の本が好きなようだ。
ソーマは最近、「ホビット」のトールキンや「タイム・マシン」のH.G.ウェルズといった古い時代の長編小説にハマっている。
シオナは女子が通る道、星座占いに今夢中なようだ。
週末、ダディの家に泊まるとき、シオナは時々僕の洋服を着て目の前に登場する。
僕が普段好んで着る服を注意深く選び、僕の歩き方、僕の話し方、僕の癖を真似て見せる。
中でもお気に入りなのが、僕が写真を撮るときの格好だ。
でも、悪いけどシオナ、ダディはもうメガネをかけていないから、変装するときの特徴がひとつ無くなってしまったね。
こうやってシオナも、少しずつ大人へと成長しています。
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by somashiona | 2012-04-09 15:51 | ソーマとシオナ