写真展の話しをもう少し

写真展で「ホバート・ショウ・デイ」を展示するにあたって、多くの人たちと議論した点があった。
肖像権だ。

これら一連の写真はポートレイトを除いては無許可の撮影だ。
被写体になった人たちは僕が写真を撮っていることすらまったく気がついていないはずだ。

ホバートは小さな街。
街を歩けば必ずと言っていいほど知り合いに出会う。
はじめてあう人でもよくよく話しをすると、知り合いの知り合いだったりする。
なのでゴシップなどはすぐに広がってしまう。
「オーストラリアン・カレント・アフェアー」という人気テレビ番組がある。
身近な問題にスポットを当て、一般人にもマイクを向け容赦なく追いかけ回す番組だ。
こんな番組で一度でも攻撃されれば、もうタスマニアでは有名人。
いいことも、悪いことも、ここではあっという間に広がってしまうのだ。

とてもいやらしい言い方だが、他のアートと違う写真の特性は「盗みとる」ことだと僕は思っている。
無防備の一瞬には見る者の本能をそそるものがあるだけではなく、口では伝えられないストーリーが詰まっている。
こういう写真を残すことが難しい世の中になっているが、この分野の写真は絶対にこの世から消えてはいけないと僕は思っている。
アンリ・カルティエ=ブレッソンロベール・ドアノーロバート・フランク、そして木村伊兵衛たちが残してくれたこの分野の写真を滅ぼしてはいけない。
彼らの写真が後世に残してくれたものはあまりにも大きいし、それらを見て写真の世界に足を踏み入れた人もきっと多いはずだ。
僕もその一人だが。
ブレッソンがライカを持って街を歩いているとき、「すみません。一枚写真を撮っていいですか?」と聞くような人間だったとしたら、この世にマグナムなど生まれていなかっただろう。

僕と議論した多くの人たちは、他人の一瞬を見るのは興味深いが、そこに自分の姿を見つけたら不快に思うかもしれない、と言った。
とても正直な意見だと思う。
僕も同感だ。

自分勝手な話しではあるが、僕が大切だと思っていることは、撮る側の姿勢だ。
被写体を見せ物にしたかったのか?
惨めで悲惨な人生を笑いたかったのか?
彼、彼女の容姿の特性をコケにしたかったのか?

僕は美しいと思ったから撮った。
この時期、写真ブログには桜の写真で溢れている。
この桜を撮った人たちと同じような気持ちで、僕はホバート・ショウ・デイの人たちを撮った。

日本に住んでいた頃、僕の大好きなアーティストが「ヌード」というタイトルの個展を開いた。
真っ白なシルクのキャンバスに漆黒の顔料で書道の一筆書きのように仕上げた力強い作品だった。
ギャラリーの入り口にポスターを貼ると、翌日最寄りの学校からクレームが来た。
子どもたちの通学路に「ヌード」のポスターはいけないという。
コンビニや電車の中でいかがわしい写真が氾濫する国の話しだ。
「ヌード」イコール「いかがわしい」、「無許可の写真」イコール「人権無視」、こういった考え方が人々に浸透するのは、危険なことだと思う。
見る側にきちんとした判断が出来ない国に良いアーティストは育たないのだ。

こういう話題を投げかけ、僕のような意見を言うときっと反感を買うことだろう。
今まで、仕事で出してきた写真は新聞なり、雑誌なり、または広告会社なりに守られていた。
しかし「自分のメッセージを外に向かって発信したいのなら、覚悟が必要」。
これこそ僕が今回の写真展で学んだ大切なことなのだ。
(そんなこと当たり前だ、今さら何を言っている、と思う方が大勢いると思うが、僕はこの問題にぶち当たったことも、きちんと考えたことも残念ながら今までなかった。)
腹を決めなければいけない。
作品を発表するということは、結局、自分をさらけ出すということだ。
これには勇気が必要だ。

もし、被写体になった人から不快だとクレームがきたらどうするか?
作品の意図を説明しても納得してもらえなければ、その写真を外すしかない。
出版してしまったものにクレームがきたらどうするか?
考えれば考えるほど恐ろしくなる。
しかし被写体になった当事者に不快な思いをさせてまで自分の我を通してはいけない、というのが今のところ僕の基本的な考え方だ。
勇気も必要だが、潔さもまた大切だと思っている。


今日はタスマニア、イーストコーストのカラー風景写真をお見せしたい。

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ビシェノーよりすこし北のビーチ




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by somashiona | 2007-04-09 00:21

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