流れる雲を追いかけて

ホバートにある某アートギャラリーからアメリカでの個展に使うパンフレット作成の依頼を受け、僕と親友のギャビー(ジャーナリスト)車を走らせていた。
個展を開くアーティストが住むタスマニア北部の小さな町へ向かっているのだ。
ホバートから車でおよそ4時間の距離。
目的地へ向かう車中、そのアーティストの情報をまったく持っていなかった僕にギャビーは彼の画集を手渡してくれた。
画集を開き、目に飛び込んできたのは、重い鉛色の空にぽっかりと雲が浮かぶ絵だった。
オイルを使った荒々しいタッチなのだが、見るほどにそれが安らぎに変っていく、といった印象をもつ絵だ。
僕は一目でその絵が気に入り、まだ会ったこともないそのアーティストの写真をどう撮るのかというイメージがあっさりと決まった。
目的地へ着くまでの車中、僕は妙にリラックスしていた。
小心者の僕が撮影の前にリラックスするだなんて、とても稀なことだ。

インタビューと撮影で丸一日を使い果たし、午後4時半に僕たちはアーティストのスタジオを後にした。
撮影はイメージした通りの絵が手に入ったという充分な手応えがあり、大満足だった。
すでにRAWファイルで4GB以上撮っていたので、普段ならカメラを触ることさえもうイヤだと感じるはずなのに、この日は僕の写欲がまだ沸騰したままだった。
原因は分かっている。
あのアーティストのせいだ。
彼のクリエイティブなエネルギーを全身で受けてしまい、心が制御不能になっているのだ。
隣で運転するギャビーも今は口数が少ない。
きっと彼が発した言葉の数々が彼女の脳のひだの間で、今も落ち着き無く、うごめいているのだろう。

普段、僕一人で取材に行くときは被写体になる人とイヤというくらい話しをする。
そしてその後で撮りはじめる。
しかし、ジャーナリストと一緒のときは、僕はインタビューに応える被写体の話をまったくといっていいほど聞いていない。
被写体は僕の顔も時折見て話しをするので、僕は分かったようなふりをしてうなずいたりするのだが、実は何の話しをしているのかまったく分かっていない。
これは会話が英語だからではなく、東京で仕事をしていたときもまったく同じ状況だった。
カメラマンとは、そんなものだ。(僕だけかもしれない)
ただ、この日はそんな僕もしばらく撮影の手が止まった。
話題が彼の作品の中心的なサブジェクトである、雲を見つけたときの話しになってからだ。
彼が住む広大な牧草地の上に広がる空と雲を、彼は自分のサブジェクトにしようと決め、以来彼は流れる雲をいつでも追いかけているという。
「流れる雲を追いかける」、いい響きだ。

僕がタスマニアにきた当初、やり始めようとしていたのがモノクロで雲を撮ることだった。
タスマニアの雲はまるでなにか別の生き物のようなのだ。
周りの人たちにこの話しをすると、全員から同じ答えが返ってきた。
日本からきた僕にとって、タスマニアの雲は素晴らしく見えるかもしれないが、ここに住むものたちにとってそれは、そこら中にいる羊を見るくらい当たり前のものなので、わざわざ写真で見る価値がないと。
当時、僕はオーストラリア人に僕の写真を認めて欲しかった。
だから、彼らの「つまらない」という意見を真に受けてしまったのだ。
要するに、しっかりとした自分の価値観を持っていなかっただけなのだが。
(今もその性格は変わらない)

子どもの頃から草の上に寝転んで雲を眺めるのが好きだった。
そのかたちを見ていると様々な想像が、それこそもくもくと立ち上がった。
雲を見ているだけで、時間はどんどん過ぎていくのだが、退屈など決してしなかった。
最近よく思うのだが、あの雲を見て時間を過ごした少年時代、僕はとても純粋で幸せだった気がする。
今、あの頃と同じように雲を見ることが出来ない自分が少し悲しい。
あの雲を眺めていたときの、心の充実感は今もまだ心の隅に感覚として残っているのに、同じ温もりを味わうことが、僕にはもう出来ない。

帰りのルートは、かなり遠回りになるが、国道から逸れた田舎道で行くことに決めた。
この道は、僕たちがこの日取材したアーティストが勧めてくれたルートだ。
「きっと美しい雲が見れるよ」と彼はにっこりと笑った。

車の助手席でカメラを握りしめたまま、僕は流れる雲を目で追いかけていた。
今日は、少年の日のあの感覚が、すぐそこまで近づいている気がする。
僕は横で運転するギャビーの存在をまったく忘れ、助手席の中から、空が暗くなるまでシャッターを切り続けた。




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by somashiona | 2007-04-12 05:06

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