三姉妹 --- ブロンティー、アリー、ナキータ

男ってどうしていつもそういうふうに考えるの?
女だからさ、みんなそうやっちゃうんだよ。

僕はこういうフレーズについつい敏感に反応してしまう。
「男って」という言葉には僕も含まれるだろうし、個人を無視して人間をステレオタイプに分けてしまうのには無理があると思うからだ。

だが実際、何かを説明するときには、同じような表現をし、他の方法を思いつかない自分の幅の狭さを嘆かわしく思う。

今日もその一例だ。

女性を撮る時、いつも思うことがあるのだ。
それは子供から、お年寄りまで共通して言えること。
「女性は生まれながらにして、女優」、自分を演じることを、知っている。

男性だとそれが素人さんではなく、タレントさんであっても、なかなか自分を演じきれない。
努力はしているのだが、どこか、照れのようなものが常に見える。

写真を撮られることに極端な拒否反応を示す人が割と多くいる。
レンズを向けるとそれまでの穏やかな雰囲気が一気に吹っ飛び、「ああ、お願い、やめて。写真を撮られるのって好きじゃないの!」と顔色を変える人だ。
あまりの豹変ぶりに、冗談も言い返せず、素直に謝るしかなくなる。
そんな女性ですら、写真を撮る理由を、もしくは撮りたい理由を、きちんと説明して、フィルムにすると2、3本ぶんの素振りをしてから(撮られる側はフィルムが入っていると思っている)本格的な撮影に入っていくと、徐々に鎧がとけ、次第に彼女も本気モードになり、最終的にはカメラに向かって挑んで来る。
この反応にひるんではいけない。
正々堂々と受けて立たないと負けてしまう。
写真を撮っているとき、撮る側はいつだって最大限の努力をしていると思うが、実は撮られる側も必死に無言の努力をしているのだ。
それは子供、お年寄り、シャイな人、写真を撮られるのが嫌いな人でも皆同じだ。
僕たち撮る側はその努力を見逃してはいけないと思う。
撮影がすすむと、彼女と自分との間に繋がっている糸が見え、言葉なくしても、いいものを創るためにお互いに努力しているという、一体感が生まれる。
この一体感は相手がプロ、素人に関わらず生まれるもので、これがある撮影は心が満たされるし、これがポートレイトの醍醐味だと思う。

ポートレイトを撮る時、感じることが他にもある。

僕はまた見たことがないが、もし僕が心理学を専門にしているのなら、「ポートレイトの心理学」というような論文を書きたい。

よく知っている友人でも、ポートレイトを撮るためにカメラを間にはさんで向き合うと、友人のいつもとまったく違った側面を発見し、驚く。
その人がふだん自分とどう向き合っているのか、自我の強さ、虚栄心、自然体、他人から自分はどう見られたいと思っているのか、等々が如実に現れる。
その時、比較的素直になれるのが女性で、男性はそれがなかなかできない。
照れと戸惑いが交錯する。
男性の方、試しに誰もいない部屋で三脚にカメラを取り付け、タイマーで自分を撮ってみては?
たとえ写す側の人間がレンズの向こうにいなかったとしても、どんなポーズをとって、どんな表情を作るか、あなたはかなり戸惑うはずだ。
そういう意味では、写真におけるセルフポートレイトというのは、自分の知らない自分を自分で暴くという、とても興味深い分野なのかもしれない。

よく「この一枚は被写体の人間性を如実に表している」と言うような言葉を耳にする。
矛盾しているように聞こえるかもしれないが、僕は自分の写真で被写体の真の人間性を表せるだなんて、まったく考えていないし、そんなことができるとも思っていない。
あくまでも、自分はどう感じ、どんなふうに表したいか、の範疇にとどまっている。

ポートレイトを撮る為の一番効果的な練習はヌード写真を撮ることだと思う。
撮る相手はいつもベッドを共にする相手であってはいけない。
よく知らない人、あるいはよく知っているが、自分の目の前に裸をさらけ出すなど、想像もできない人がいい。
まずは撮りたいと思う人を説得することからはじまる。
相手が自分の前で服を脱いでもいいと思えるほどの理由が必要だ。
いや、正確に言えば、相手がイエスという動機はその理由にあるのではないと思う。
90%以上の確率でその人を撮ろうとするフォトグラファーの情熱に揺り動かされるのではないだろうか。
写真を撮る上で、ここの部分はとても大事だ。
撮る側の熱が相手にどれだけ伝わるか。
ヌードに限らず、新聞、雑誌の取材でも、これがないと撮影の許可がもらえないし、いい写真も撮れない。
さて、イエスをもらい話し合って決めた部屋で二人きりになる。
この時はぜひ二人きりでやることをお勧めする。
被写体の友人や恋人がそばにいると、被写体は芯から自分を演じられないものだ。
なぜなら友人や恋人に見せている顔と、本当に自分が見せたいものにギャップがあるからだ。
自分を演じることが出来なければ、被写体自身も本当の意味で、その撮影を満喫できないと思う。
相手が服を脱ぎはじめたとき、目のやり場に困るだろう。
でも同時に、そこには相手の覚悟が見えるだろうし、自分も最高のものを撮ってやろうと覚悟するはずだ。
よくヌード写真の話しになると、変なこと考えているんじゃないの?みたいなことをきかれるが、意を決した相手が自分の前で服を脱ぎはじめるとき、やましい考えなどは頭の中に微塵も浮かばないはずだ。
そして撮影が始まる。
相手が鎧をといていくのと同時に、撮影している自分も鎧をといていくことを忘れてはいけない。
あなたも服を脱ぎはじめる、という意味ではないので誤解しないでほしい。
以前、ニセコのヨダさんがブログで言っていた。「写真は自分の性癖を見せることでもある」、同感だ。
自分のイマジネーションにどれだけ素直になれるか、相手が意を決して服を脱ぐのと同じくらい、撮る側も自分をさらけ出さなければいけない。
これが意外と難しい。

おっと、同じことを繰り返し言っている自分に気がついたので、この話しはこの辺で終わりにする。

サンパックのグリップタイプのストロボの調子が悪く、テストしていた時、友人のシェーン一家が遊びにきた。
その場のノリでモデル撮影会が始まる。
長女のブロンティーはこの時10歳。
カメラの前に立つ彼女は、完全に僕に挑んでいた。



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by somashiona | 2007-04-25 11:00

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