芸術とは、限りなく盗作に近い模倣なり



「芸術とは、限りなく盗作に近い模倣なり」
誰の台詞か知らないが、僕の友人Yは口癖のようにこのフレーズを繰り返していた。(吉田!お前のことだよ!あっ、いけね、本名言っちゃった)
まだ学生の頃の話しだ。
その頃、彼は映画を作りたくていつもうずうずしていたが、僕はと言えば単車を転がし、ガールフレンドといちゃつくことで忙しい毎日を過ごしていた。

27歳で写真に出会い、寝ても覚めても写真のとこばかり考えた。
カメラさえあれば写真は誰にでも撮れる。
間違いではない。
画家になろうと思ったらデッサンからはじまり、人がまともに見れるものを描けるようになるまで気の遠くなる道のりを歩かなくてはならないだろうし、小説家になるためには繊細な感性と数学のように物事を順序よく展開できる賢いおつむがないとダメだっていうことくらい、これも容易く想像できた。

写真にはそんな面倒なステップは必要ない、、、と僕は思っていた。
しかし、僕は写真の罠にまんまとハマってしまったのだ。

写真はファッションモデルなみの女性ではなく、隣の家に住む、どこにでもいそうな娘の姿をして僕に微笑みかけたが、知れば知るほど魔性が心に住みつくエコエコアザラクのような女だと徐々にわかってきた。
最初は自分の思い描くイメージを、ほんの少しの知識と努力で簡単に与えてくれる。そして自分の撮った写真を見ては「げっ、いいじゃん、いけるじゃん、俺ってひょっとして、才能あり?」とうぬぼれる。
技術の獲得は初期の段階では目に見える進歩があるから、面白くてヤメられない。
やがてより高度な技術のために、より理想のイメージを作り上げるために、様々なレンズが欲しくなる。新しいレンズを買ってはそれよりも速いスピードで欲しいレンズ・リストが頭の中で自動更新され、レンズが揃ってくると次ぎに、これまた自動的に欲しいカメラボディ・リストが作成される。
毎月せっせ、せっせとフィルムを買い、36コマの中に一つもお気に入りがないと、またムキになってもっとたくさんフィルムを買い込み、会社に行く回数よりも多く、ラボに通うことになる。
もちろん銀行口座の残高は以前に増して急速に寂しくなるが、それでも自分を止めようとは決して思わない。
これも魔性の女と付き合ったことのある男なら、同じ思いを経験済みだろう。
何と言っても相手はエコエコアザラクの黒井ミサ、肉の喜びに溺れることと、写真に溺れるのは同等の意味を持つ。(知らない方へ『エコエコアザラク』 は、古賀新一氏のホラー漫画)

基本的技術をだいたいマスターすると撮りたい写真のスタイルを模索するようになる。
僕の場合、最高の先生であり、また最高のテキストは写真集だった。
写真集であらゆるタイプの写真を見まくる。
やがて自分が理想とする写真家が自分の中で確立され、自分の写真をそれに近づけようとする。

写真に出会ってから1年で会社を辞め、3年後にはロスアンジェルスの写真学校に通っていた。
その後、プロとして東京で働きはじめた後も、僕はまだこの自分の理想とする写真家に自分の写真を近づけようとする努力を続けていた。
その間、友人のYである、吉田のあの言葉がエコエコアザラクの呪文のようにいつも頭の中で流れ、耳障りなノイズのように永遠と僕を苦しめた。
「芸術とは、限りなく盗作に近い模倣なり、芸術とは限りなく、、、」

僕が目指した写真家、すなわちロバート・フランク、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ジョセフ・クーデルカ、ヤン・ソウデックたちはその頃僕がやっていた仕事(プロレス、格闘技関係の写真)とはこれっぽっちも重なるところがなかった。
僕は次第に仕事に、そして写真にストレスを感じはじめた。

今度は型から逃れようともがきはじめた。
でも、仕事をする時は必ず依頼者の希望を満たさないといけない。
自分の作品を作っているのではない。
どんな写真を撮っても心の底では「何かに似てるなぁ」「あれっ、どっかで見たことあるぞぉ、、、」と言う気持ちがあった。
「俺はまだ模倣をしているのか?」何年経ってもこの気持ちが消えなかった。

アメリカにおいてアンセル・アダムスというモノクロ風景写真家の名前なら、写真をやっていない人でもだいたい知っている。
今の日本なら土門拳や木村伊衛兵よりもアラーキーや篠山紀信といった写真家のほうが一般の人たちには知名度があるだろう。
タスマニアでは故ピーター・ドンブロンスキーというタスマニア出身の写真家が写真の代名詞だ。そして、タスマニアで写真といえば、それはもうピーター・ドンブロンスキーのような風景写真のことをさす。逆に風景写真を撮らなければどんな良い写真を撮っても見向きもされないふしがある。
いい写真を撮れば「ピーター・ドンブロンスキーのようにいいね」と褒められ、人物写真を撮れば、「どうしてピーター・ドンブロンスキーのような写真を撮らないの?」と尋ねられる。
僕はタスマニアに来て以来、しばらく他の人の写真を見なくなった。
どんな写真家が有名か、どんな写真が今の流れか、皆があっと驚く写真って何か、もうそういったことはどうでもよくなった。
写真雑誌も一切見ない。
好きな映画すら見なくなった。

すると、写真をはじめた頃の、あのウブな気持ちが蘇ってきた。
そしてたぶん、はじめて自分の心と向き合った。
「いったい、ホントは何が撮りたいの?」
「何が欲しくて写真を撮るの?」
このことを考えるようになった。
技術やスタイルの話しではない。

僕は写真によって人生が変わってしまった。
僕は写真が人の人生を変える力を持っているということをよく知っている証人だ。
景色が綺麗、なんだか素敵、いいムード漂う、発色がいい、構図がしっかりとしている、光りをよく読んでいる、みな大切な要素だけど、それが一番じゃない。
醜くても、ぶれていても、光りが悪くても、日の丸構図でも、かまわないからシャッターを押してしまう何かがそこにあればいい。
それは何か?
いつだって心の中はどろどろと、ごちゃごちゃと、まとまらない思いが嵐のように渦巻いている。
自分に対して、他人に対して、社会に対して、世界に対して。
それが幸せであれ、希望、喜び、愛、不安、不満、失望、悲しみ、なんであれ、心はそれを吐き出す場所と方法をいつも求めている。
ほんの一瞬、それが僕の目の前で起こっていることと重なりあう時がある。
言葉にならない僕の思いが、他人の姿をしてヴィジュアル的に再現されることがある。
僕は人の心の中を計り知ることなどできない。
唯一、僕ができることは、自分の知っている経験や感情と目の前に起こっていること、目の前に広がるものと重ねあわせることだ。
それを僕のカメラが上手く捉えることができたなら、それは僕だけのものだ。
それは模倣でも、盗作でもない。
僕だけのものだ。

僕は最近やっと少しだけ写真がわかりかけている気がしている。
ちょっと時間をかけすぎた感もあるが、不器用だからしかたない。






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上の3枚。カメラを買って間もない頃の写真。
フィルムはネオパン、現像もプリントも本を読で調べながら、バスルームでやった。
札幌、大通公園、札幌駅(2枚目)






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L.A.ではスナップショットの毎日。
最後の写真は当時住んでいたフラットの管理人。
家賃滞納で壁にベタベタと私物を没収しますよという脅しの紙が貼られるようになったので、友好関係を結ぶべく、彼の愛するわんこと一緒にポートレイトを撮った。
Los Angeles, Hollywood














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by somashiona | 2007-06-22 21:59 | B&W Print

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